清岡卓行氏追悼

gladson2009-03-02

1週間の菜種梅雨後、久しぶりの青空、深沢皮膚科へ行き、痒み止めと花粉症の薬をもらう。ついでに近くの理容店で散髪。アマゾンMPから「旅愁(上)」が届いた。早速読み始めて、詩的な楽しい気分になった。

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清岡卓行氏追悼
清岡卓行さんを偲ぶ会」に参加して
< 清岡さんありがとう>
 最も影響を受け愛読して来た、詩人で文学者の清岡卓行さんが亡くなった。清岡さんは、平成18年6月3日、間質性肺炎で83歳の生涯を終えた。新聞の訃報をみて、深い哀しみと言い様のない寂しさに襲われた。もう二度とあの詩における美しい言葉と表現、そして小説とエッセイにおける優しいまなざしと情感溢れる文章を読むことは出来なくなった。
 長い間詩作活動を続けて来た詩人が、47歳になって始めて小説を書いた。清岡さんが「朝の悲しみ」に続いて、48歳の時に書いた「アカシアの大連」が芥川賞を受賞した。その時初めて詩人で小説家の清岡卓行さんを知った。「アカシアも大連」を読んで、瑞々しい青春の哀感、叙情的な恋物語、故郷への郷愁などにすっかり魅了されてしまった。早速手に入る詩集を買って来て、夢中になって読んだ。最初の詩集「氷った焔」の冒頭、「石膏」の中の「ああ きみに肉体があるとはふしぎだ」や、「日常」の中の散文詩「地球儀」が特に気に入った。その後出版された詩集、小説、評論、随筆集など本屋で見つけた著書はすべて買って読んだ。特に恐らく清岡さんの代表作といえる「マロニエの花は言った」は、第一次と第二次大戦の間にパリで生きる芸術家たちの姿を記録と文学を統一した形で描いた傑作で、清岡文学の集大成であると思う。どうして清岡さんの人となりとその作品にこんなに惹かれるのか、清岡作品の魅力について考えてみた。
 第一に、清岡さんの芸術、中でも詩、文学、音楽、絵画に寄せる深い愛着に共感を覚える。シュールな詩作と金子光晴萩原朔太郎の評論、モーツアルトのフルートとオーボエの二つを比較した「フルートとオーボエ」、大連と中国を題材とする小説と随筆、岡鹿之助への愛着など、芸術作品に寄せる熱い思いが私を引き付ける。
 第二には、生れ故郷大連に寄せる郷愁と、一高時代の青春への熱き思いが痛い程伝わって来る。「アカシアの大連」を始めとする大連四部作の郷愁と自殺した友人原口統三(海の瞳」や尊敬する漢文の教師阿藤伯海(詩禮傳家)への想いが作品を通じて心に響いて来る。暗澹たる戦況の中で死を思い、そして大連で終戦を迎えるという青春時代が痛ましい。
 第三は、生活者としての清岡さんの姿勢に惹かれる。昭和23年僅かな衣類だけを持って大連から引き上げた。東大仏文科に復学するも生活費を稼ぐため授業には出られない。日本野球連盟に就職しセントラルリーグペナントレースの日程編成に携わる。昭和39年42歳でセ・リーグを退職し法政大学に就職。芸術への思いを秘めながら生活のために働く姿は胸を打つ。この間、大連で結婚した奥さんを失う。
 第四は、昭和47年、多摩湖町に転居して、「マロニエの花は言った」を頂点とする詩、小説、エッセイ、評論などの傑作を世に送りだしたことである。昭和45年「アカシアの大連」で芥川賞を受賞し、「固い芽」「幼き夢」などの充実した詩集を発表し、「郊外の小さな駅」や「太陽に酔う」などの美しい言葉で綴られた珠玉のエッセイ集を発表した。「マロニエの花は言った」は両大戦の間のパリに集った芸術家群像と時代を、詳しい調査に基づいて描き切った長編小説である。
 清岡さんはその優しい人柄を作品に見事に結実して、美しく懐かしい世界をつくり出してくれた。今でも少し気持が落ち込んだ時など、「幼い夢」や「日常」などの詩集をひも解く。これからも清岡さんが残してくれた珠玉の作品を将来の友として読み続けていたいと思っている。
<清岡さんを偲ぶ会>に参加して
 新聞で清岡さんが亡くなって、親族で葬儀も済まされたことを知った。心の支えであった清岡さんに、何とか別れの挨拶をしたいと思った。迷惑とは知りつつ、止むに止まれない気持ちから奥様にお悔やみの手紙をだし、もし「お別れの会」とか「偲ぶ会」が開かれるようならお知らせくださいとお願いした。
 9月上旬講談社文芸部から、思いがけなく「清岡卓行さんを偲ぶ会」の案内が届いた。内容は11月11日、市ヶ谷にある私学会館6階で午後6時から開催され、発起人は大岡信、那珂太郎、高橋英夫吉本隆明の四氏であった。当日「偲ぶ会」に参加するため新幹線に乗って出かけた。会場のホールには、丸テーブルが10脚程並べられていた。ホールの中央壁よりには周りを花で囲まれた清岡さんの写真が飾られていた。出席者は入り口で菊の花を受け取り、遺影の前に捧げた。その横のテーブルには、清岡さんの全著作が並べられていて、手にとって見ることが出来た。
 会は6時少し過ぎに講談社文芸部の中島さんの司会で始まった。最初、発起人の一人である大岡信さんが挨拶した。大岡さんは一高の後輩で、一高では清岡さんの名前は知れ渡っていたこと。「現代評論」と「今日」の同人の時よく一緒にお酒を酌み交わしたことなどの想い出を語った。次に、那珂太郎氏が特に「ユリイカ」が廃業する時の清岡さんの影ながらの苦労と努力について語った。最後に吉本隆明氏がかって清岡さんに水餃子を作ってもらって食べた想い出を語ったあと、乾杯の音頭をとられた。
 会は立食パーティー方式で進んで行った。出席者は日頃から知りあった仲間同志と言う感じで、あちこちで話しの輪が出来ていた。奥さんと三人の息子さんの周りには、入れ代わり立ち代わり人々が挨拶に訪れていた。一読者で地方から参加したものは恐らく自分一人であろうと思った。会の途中で一高の同級生、三重野康氏(元日銀総裁)と牟田口義郎氏(元朝日新聞記者)が一高時代の清岡さんの想い出話を語った。
 会も終り頃、奥様の岩坂恵子さんが挨拶をされた。「2002年に間質性肺炎にかかり入退院をくり返していた。服用していたステロイド剤のため胃潰瘍になり病状がさらに悪化した。家にいる時は好きな野球放送を見たり、音楽を聴いたりしていたが、恐らく胸のうちでは書きたいことが一杯あったのではないか、その無念さを思うと可哀想でならなかった。」といって嗚咽されてしまった。
 8時過ぎに会は終わり、出席者には最後の詩集「ひさしぶりのバッハ」が渡された。その詩集の中に収録されている「ある日のボレロ」は、奥さんが病室で口述筆記された清岡さんの最後の詩である。
              ある日のボレロ
           パンツ一丁で ピアノを弾くのだ!
           いいか わかったか
           それがおまえのいのりのかたちだ
           目をひらくと 果てのない空は鏡
           おまえは青春の管弦楽舞曲の着手に熱狂する
           ひとつの旋律は変幻をくりかえし
           傍らにいる親友たちにおまえはきく
           デカダンスに溺れるか それを超えるか
           わたしには不幸にもそんな思い出がない