「ペルソナ 三島由紀夫伝」 感想

11月2日(金)曇り
23℃、55%、NOセット
16℃(朝外気)、21℃(朝室温);17℃(外気)(10.00)


「ペルソナ 三島由紀夫伝」をやっと読み終わる。
三島(本名:平岡公威)は、私の一つ年下である。したがって同じ時代を生きてきた。その点では共感するものがある。しかし、三島の作品は好きでない。それで彼のものは殆ど読んでいない。読んだのは、自伝的小説「仮面の告白」ぐらいである。

「ペルソナ 三島由紀夫伝」は大著である。この内容を短文で纏めるのは至難である。幸い末尾に、対話形式での著者の感想めいたものがあるので、その抜粋で“纏め“に替えさせて貰うことにする。

―――――――――――――――――――――――――――――
猪瀬:(略)19歳で『花ざかりの森』を処女出版するにあたっては何度も何度も挫折する。挫折するうちに、最大の壁が用紙の配給にあることがわかってくる。そこで父親のコネを使って、かって祖父が樺太に誘致した王子製紙にわたりをつけて用紙を確保し、ようやく出版の話をまとめるわけです。(略)

―――涙ぐましい努力といえば、戦後のデビューを飾る『仮面の告白』執筆の際の奮闘ぶりも、ずいぶん新鮮でした。「才能」の裏側でこんなに呆れるほどの努力があったのかと驚きます。
猪瀬:三島は才能のある人ではあるけれど、それ以上に偉大な生活者だったと思います。昭和23年9月に大蔵省を辞めて。さアこれから筆一本で立たねばならない。両親兄弟を養わねばならない。あとに引けない崖っぷちにたったわけです。23歳の青年は必死でかんがえていた。いったい何を書けば成功するか、どう書けばベストセラーになるかーーー、そうして、目をつけたのが「性」と「告白」でした。
「性」は戦争中ずーっと抑圧されてきたものですから、日本人は飢えている。ただし、ただのエログロの陳腐なものではしょうがないもで、ゲイの世界という新しい領域を見つけ出す。もう一つ「告白」は、太宰治の告白ものがベストセラーになっているという事実を横目に睨んだものです。この二つを大枠にして、初恋のほのぼの路線も加味する。こうすれば間違いなく当るだろうと踏んだわけです。(略)
―――満を持して打った勝負に三島は辛うじて勝つ。そして『金閣寺』までは順調に進む。ところが『鏡子の家』でとんだ肩すかしを食うわけですね。これが躓きの第一歩といっていいのでしょうか?
猪瀬:大きくみれば、これが三島の死の遠因だと思います。(略)このときの怨念が、『憂国』『英霊の声』そして盾の会、自決へのコースをつくりだしていくように思いますね。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

以下、「仮面の告白」の‘初恋のほのぼの部分‘の荒筋を述べる。
私(三島)は、親友である草野の家で、瑞々しい妹園子に惹かれた。終戦の年の6月半ば、軽井沢に疎開していた園子母子に招待される。高原の林の中で、二人はぎこちない接吻をかわした。翌日も接吻をしてしまった。別れのとき
「またきっとおいでになるわね」
「うん、多分ね。僕が生きていたら」
勤労動員先の工場へ帰って二日すると、園子の熱情あふれた手紙が届いた。それは本物の愛だった。
その後、草野から手紙がきた。内容は「君の気持ちを知りたい。母は式の日取りまで考えている」という。
私は愕然とした。まだ21歳で、学生で飛行機工場へ行っていて結婚どころでなかった。その晩「急なことで、今の段階でそこまで気持ちが進んでいない」と返事を書いた。間もなく終戦になって、平和と共に大学に戻った。

2年後麻布の町を散歩しているとき、うしろから名を呼ばれた。園子である。園子は結婚していた。良人は海外にいるらしい。それから二人はしばしば会った。しかし何ごとも起こらなかった。その間、私は官吏登用試験に合格し、大学を卒業し、ある官庁に事務官として奉職していた。一緒にダンスも踊った。

ダンスの合間に園子が、つつましい口もとに微笑の兆しみたいなものを漂わせながら
「おかしなことをうかがうけれど、あなたは“もう”でしょう。“もう”勿論あのこと御存知の方でしょう」
返事を何とかごまかしてこの小説は終わっているー1949,4,27−。


猪瀬の凄いところは、園子のモデルを見つけ出して電話で取材をしていることである。その時ご主人は亡くなっていて、奥さんが園子のモデルだということを知らずしまいだったとか。園子は、小説に書いてある通りの人のそうである。


昭和32年にニューヨークのジャパンソサイアティのパーティで、三島は偶然園子に再会した。園子は、赴任する夫に従い二人の幼い子供を連れ、一年前の夏、ニューヨークに来ていた。互いにシャンパングラスを落としかねないほどの驚きだった。とはいえ傍らに夫がいる(263頁)。
この情報は、おそらく園子のモデルから得たものであろう。

帰国後、三島は著名な日本画家杉山寧の長女瑤子と見合い結婚した。