紀子妃

久しぶりに雨がふり、庭の草木も喜んでいるであろう。ところで、

悠仁親王がお誕生になり、将来の天皇の母君になられるかもしれない紀子妃に注目が寄せられている。
本日発売の「週刊ポスト;11.03号」に、やや詳しく紀子妃の出自や秋篠宮とのなれそめなどが紹介されている。以下、特に印象に残った点をメモ書きして残すことにする。

紀子妃の曽祖父は、和歌山県の山深い里の貧農の子であったが、その才を見込まれて、紀ノ川の河口で海運業を営む川嶋庄右衛門の婿養子となり、「川嶋庄一郎」と改名した後、高等師範学校を卒業して、のちに学習院の教授になった。庄一郎の長男、紀子妃の祖父は内閣統計局長に、父・辰彦氏は学習院大の教授になった。


紀子妃は母親の実家である静岡市で生後1歳まで過ごし、父の留学先のアメリカ・フィラデルフィアに渡り、小学校1年生で帰国した。その後、父親の勤務先となったウイーンで暮らしたが、学習院女子中等科から高校、大学と進んだ。大学に入ってすぐ、構内の「成文堂」という書店で、礼宮と出会った。

「私は川嶋教授と長いつきあいで、紀子さまも存じておりました。礼宮さまもよく見えられておられて、素敵な人がいたら紹介してといわれていたんです。で、紀子さまと。ただ、店の中じゃさすがに目立つと思い、奥の事務室にお通しさせていただきました」
店主の阿部さんが話す。

“川嶋教授のお嬢さん”は、礼宮の主宰するサークルに参じた。それからの恋の実りは早かった。8か月後、神奈川県三浦海岸でふたりは初めてデートをした。この時、礼宮紀子さまを両陛下に紹介した。その後、ほぼ毎日のように「もしもし礼宮ですが、紀子さん、いらっしゃいますか」と川嶋家にコールがあって、そのたびに母親はおろおろしたという。

三浦海岸のデートから約半年後、紀子さま礼宮のいるサークルの飲み会に出た。川嶋家のお嬢さんを送る時間になった。交差点の信号は、赤だ。信号待ちをしながら礼宮が「私と一緒になってくれませんか」と息を弾ませた。礼宮20歳、紀子さま19のときである。
信号機の下でプロポーズされた紀子さまはすぐには応諾されなかった。・・・格式、家柄の違い・・・
だが、礼宮紀子さまへの深い愛情は宮廷の杞憂と干渉を超えた。天皇家の勅使として侍従長が川嶋家を訪ねた。
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なお、学習院はもともと華族の師弟を受け入れる官立学校として発し、のちに英国の名門パブリック・イートン校をモデルに、「皇室の伝統を重んじ、教養を備える」学校への改革がなされた。

学習院にくる子供たちは生まれつき地位とカネと名誉をもっている。そこで学ぶのは、人から恨まれない生き方です。だから学内に競争は存在しません」と某教育研究家は言う。
そしてこの学校は、水泳も登山も「争う」のでなく「争わない」そうである。

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一方、戦前私が田舎からぽーっと出てきて入った第一高等学校(旧制:一高)は、スポーツは、「勝ったらよい!」、「勝利の女神よ!」などと、勝つことに執念を燃やしていた。どうもこの気風にはなじめなかった。学習院との対校試合もあったが、この時の学習院の応援は一高と変わらず、品がよいとは言えなかった。上記の「争わない」というのは、戦後のことなのかもしれない。