名門企業・日本特殊鋼の光と影

8月5日(化) 曇り
28℃、50%、30℃セット(冷房)
―℃(朝外気温)、―℃(朝室温)、33℃(外気温12.00)



昼間、東京や千葉県では、ゲリラ豪雨があったとのニュースが流れた。ここ鎌倉は一雨が欲しい。

ベトナムでの政府開発援助(ODA)事業受注の見返りにホーチミン市幹部に計約9000万円のわいろを提供したとして、東京地検特捜部は4日、大手コンサルタント会社「パシフィックコンサルタンツインターナショナル」(PCI)前社長の多賀正義容疑者(62)ら元幹部4人を不正競争防止法違反(外国公務員への贈賄)容疑で逮捕した。

ODAをめぐる日本企業のリベート体質に、初めて司直のメスが入った。悪弊が続いてきた背景には、ODAを所管する外務省などより、商社やコンサルタントなど企業側が主導権を握る“日本式ODA”の実態がある。
 「リベートは発展途上国の文化で、必要経費。やめると仕事が取れない。どこの会社でもやっている」
 PCIの現地法人元社員は、こう証言する。
*         *               *
以上のニュースが今朝の新聞を賑わした。
逮捕された社員は、運が悪く、気の毒だ。

わいろで1億円もの無駄使いが明らかになった、この問題は、秋の臨時国会で野党の厳しい追及にさらされそうだ。

――    ――
野口幹世著「存亡:ある名門企業・日本特殊鋼、60年の光と影」をやっと読み終わる。かって同じ鉄鋼業界にいた私にとって、知った名前が数多く出てきて懐かしいおもいで読んだ。
経営学のcase studyとしても好著でないかというのが、読後のひとくくりの感想である。著者はいみじくも、「国家の論理」によって創立し、繁栄と名誉を勝ちえたが、その60年後に、同じ「国家の論理」によって、消滅したと述べている。

日本特殊鋼(日特)は、東大採鉱冶金学科を卒業後、ドイツに留学し、アーヘン大学の冶金研究室で学究生活を送って、日本とドイツの国力の差を痛感した渡辺三郎氏が、富国強兵の志の下に、大正5年(1916年)に、大森の地に創業した会社(当時は合資会社)である。
創業当時は、世界第一次大戦の余波で順調な滑り出しだったが、第一次大戦後は構造不況に悩まされたが、その間に経営の基礎を確立した。昭和6年から11年の満州事変から2.26事変の間までが、日特の最盛期だったという。以降、日中戦争、太平洋戦争に入り、軍の生産拡大の要求に応じ羽田工場を建設する。昭和13年に株式会社化。昭和20年の終戦と共に一切が終わる。大森工場を賠償指定され、羽田工場も接収される。昭和26年に渡辺社長が失意の中に死去。その後は、お家騒動の末に、会社更生手続きに入る。管財人早川種三氏の手腕によって、一旦立ち直るが、業界再編の波に乗り遅れ、昭和51年に事実上の吸収合併に追い込まれて、‘日特‘という栄誉ある社名は消滅した。