どくとるマンボウ航海記

1月3日(木)晴れ
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文庫本の書架を見渡していたら、「どくとるマンボウ航海記:北杜夫作(新潮文庫:昭和40年発行)」が目についた。大分前に読んで面白かった記憶があるので、ざーっと読み直してみた。その中で、「シンガポールに寄航した際に立ち寄ったビアホールで出会った日本語を話すという中国人の女の両親は日本軍に殺されたそうだ。彼女は愛想をみせるでもなく、といってそっけなくもなくビールをついでいる。その表情からは私は何も掴むことはできなかった」というくだりに心を打たれた。
この作品は、作者の昭和33年(1958年)頃の航海体験を基に書かれているそうだが、当時のシンガポールと東京の貧しさはそうは変らなかったように思われる。それが今では、世界有数の繁栄した都市に発展している。中国の上海や、北京などにも、同じように日本軍に殺された人の遺族がひっそりと暮らしているのでなかろうか。

そう感じながら、最後のページを眺めたら、しっかりした青いペン字で書かれた「S49 8/20 藤沢の有りん堂で求む  ○○」というメモにぶっつかった。○○は私の姓である。これを書いたのは、恐らく次女である。嫁入りの際に置き残していった本と思われる。昭和49年といえば、次女は12〜13歳の中一ぐらいの筈である。この年齢でこの本の内容を理解できたかどうか甚だ疑問だが、学校で先生または友達に薦められて買ったものと推測される。当時は、ケイタイは勿論パソコンも無かったから、子供の読書熱は今よりも高かったのかもしれない。何故こんなメモ書きをしたのか理由がわからない。私にはこのような習慣はない。とにかく懐かしいメモの発見であった。


伊丹十三シリーズの「マルタイの女」の録画を視た。これは伊丹監督の遺作のそうだ(1997年作)。マルタイとは、護衛対象者を意味するらしい。オウムが、この作品の動機のように思われる。激しくて、視疲れする映画である。今回のシリーズで一貫して読み取れるのは、伊丹氏の強い正義感である。この強過ぎる正義感のために自死せざるをえなかったのだろう。