政商:小佐野賢治の生涯


11月13日(火)晴れ
24℃、38%、24℃セット
10℃(朝外気)、17℃(朝室温);23℃(外気)(10.00)


室内が温室のように温かい。冬着なので余り日差しがよいのも考えものである。
午前、T医院でインフルエンザ予防接種をする。帰りにローソンで「週刊朝日;11・23号」を買う。福田・小沢会談の裏話が色々載っている。小沢が、自由党時代に自自連立をした時も、渡邊恒雄の口車に乗ったという因縁があるとのこと。



大下英治著「政商 昭和闇の支配者〈2巻〉:だいわ文庫(2006年発行)」を読み終えた。田中角栄の“刎頚の友“といわれた小佐野賢治の生涯を描いている。以下特に印象に残った点のみをメモ書きする。

小佐野は大正6年(1917年)に山梨県の田舎で貧民の長男として生まれた。幼いときから食うや食わずの苦しさの中をのた打ちまわった。小学校を卒業して間もなく、上京して大変な努力をして自動車部品会社の一切を任されるようになった。ところがその会社は、謎の倒産をした。その時に社長の未亡人とねんごろになって大金を手にしたらしい。
間もなく昭和12年に20歳の徴兵検査を受けて、甲種合格となり、翌年支那駐屯歩兵中隊に配属された。漢口作戦の時、仮病を使って野戦病院に入院し、以後病院を転々として念願の除隊を果たした。
正直者が戦死し、ずるい男が得をするような馬鹿な戦争だった。

昭和16年に24歳の若さで、東京に自動車部品会社を設立した。以降某代議士の世話で、軍需省に食い込み、佐官待遇(中佐相当)で、ひたすら金儲けに熱中した。終戦直前には、東京千駄ヶ谷にある600坪の豪邸を買った。

昭和20年の敗戦と同時に進駐軍が入ってくるや、米軍の指定商となって稼ぎまくった。
昭和25年、朝鮮戦争が勃発するや、すかさず朝鮮半島に進出し、米軍基地内にバスを運行させた。
昭和40年に、ベトナム戦争が全面拡大した。これをチャンス到来と暗躍して、ベトナム最大の米軍基地で「死の商人」と非難されようと、平気で「金儲けは、慈善事業ではない。儲けのあるところにだれよりも早く食い込んで、なぜ悪い」という考えに徹して、金儲けをしていた。


{当時、私の身近な親戚に、私と同年の東京地検検事がいた。もう時効だから、明かしても差し支えないと思う。彼は、私に「小佐野に、箱根の強羅ホテルで、検事一同が盛大な接待を受けた」と得意げに自慢した。内心嫌な気持ちになったが、黙って聞いていたのを思い出す。}


昭和47年の田中vs福田総裁選のときに、角栄のために30〜60億円の金をばらまいたそうだ。ハワイでシェラトン系ホテルの買占めをした時に、小佐野のバックには三和銀行がついていたそうだ。


昭和25年に「田舎の貧乏百姓のせがれのわたしは、華族のお嬢さんとしか、結婚したくない」といって、旧伯爵の令嬢堀田英子と結婚した。家庭ではけちな小佐野は英子に小遣いを与えなかった。一方、銀座のクラブのママには数千万円の金を与えていたという。英子はカネのために結婚したのに、カネが使えないことで、夫を憎みはじめた。夫婦の間に子供がいなかった。10兆円もの資産を持って、69歳で生涯を閉じたとき、傍らに英子の姿はなかったそうだ。

小佐野の国際興業は、約50社のグループ企業を傘下に持っていたが、小佐野の死後、バブル崩壊で経営不振に陥った。小佐野の育てた会社は「ハゲタカ・ファンド」と呼ばれる外資サーベラスの手に渡ることになるそうだ。


小佐野は、天才的に金儲けが上手だったが、愛のない私生活は淋しかったようである。