旅愁:チロル

gladson2009-01-23

「塩野さんも去年そこの氷河を渡ったとか、仰言ってましてよ。そこを渡ると、向うの谷間に、羊の群が沢山いるんですって。」

 千鶴子は子供っぽく眼を輝かせて矢代を見ながら、

「ね、それを見ましょうよ。夕暮になると、羊飼いがチロルの歌を唄って羊を集めるんですって。その美しいことって、もう何んとも云われないって、そんなに云ってらしたわ。それを見ましょうよ。」

「見るのは良いが夕暮じゃもう帰れないでしょう。」と当惑げに矢代は云った。
「でも、山小舎があるから、そこで泊れるんだそうですよ。その代りに、乾草の中で眠るんですって。」

「それもいいな。」
「ホテルで泊るより、どんなにいいかしれないわ。そこで今夜はやすみましょうよ。」
 
他人は誰も見ていないと云え、自分の愛人でもない良家の令嬢と、何の結婚の意志なく乾草の中で眠ることについては、ふと矢代も躊躇して黙っていた。

しかし、千鶴子が少しの懼れも感じず云い出すその無邪気さは、パリでの度び度びの二人の危険も見事に擦りぬけて来た美しさであった。また矢代もそれに何の怪しみも感じない旅人の心を、簡単に身につけてしまっている今である。