人間の絆(1)

gladson2009-01-21

水曜:
オバマ氏米新大統領に;初のアフリカ系 変革訴え 景気・対テロ難題直面

トヨタ、販売世界一  豊田氏の社長昇格発表

西松建設前社長を逮捕


* *************************
思い出の夏、ホップ畑、ケント州(英国)
ーーーー     −−−−−−     −−−−−    −−−−−
もの音ひとつきこえない夏の夜だった。二人はあまり口をきかなかった。・・・だが二人にとっては、沈黙もぎごちないようには感じられなかった。並んで歩いているだけでたのしく、言葉の必要など少しも感じられない。・・・
まだあの恋人たちはすわっていたが、もうしゃべってはいなかった。しっかりと抱きあい、男が女の唇にしっかりと口をおしあてている。
「夢中らしいのね」サリーがいった。
・・・大地から、かぐわしい香気が立ちこめる。ふるえているようなこの夜には、なにか不思議なものが感じられ、それとはわからぬなにものかが待ちうけているような気配だった。あたりの静けさが、突然意味をはらんでいた。フィリップの胸のなかに、不思議な感情がわき起こってきた。胸がいっぱいになって、溶けてしまうように思われ、彼は幸福で、せつなく、期待に満ちているのを感じた。・・・まるで自分が純粋な魂そのものになって、大地の香り、もの音、味を楽しんでいるかのようである。・・・
「遠くまでおくってくださって、ありがとう」
彼女が手をさしのべたので、彼はその手をとりながら、いった・・・
「ねえ、よかったら、おやすみのキスをしてくれたっていいじゃないか」
「ええ、いいわ」彼女はいった。
フィリップは冗談半分にそういったのだった。幸福で、彼女が好きで、夜がとても美しかったから、キスしたかっただけだった。
「じゃ、おやすみ」彼はちょっと笑って、彼女を引きよせながら、いった。
彼女は彼に唇をあたえた。あたたかく、豊満で、やわらかい唇だった。彼はちょっと長く接吻をつづけた。まるで花のような唇だ。すると、自分でもどうなったかわからぬうちに、そんなつもりもなかったのに、彼は腕をひろげて彼女を抱きしめた。彼女はひとこともいわずに身をまかせた。そのからだはしっかりして、頑丈だった。心臓が彼の心臓に鼓動をつたえているのが感じられる。すると彼は正気を失ってしまった。まるで奔流のとうな感覚のうずに圧倒された。彼はいっそう暗いまがきのかげに、彼女を引っぱりこんだ。・・・・・・・・・・・・・・・・・
彼女は、フィリップが寒さのためにまっさおになるまで海から出てこないなんて、ほんとにいけない人よ、と、母親に告げた。とても信じられないことだが、それでもどうやら、まえの晩のできごとは、彼女の心のなかに、彼にたいするいたわりの気持ちをよび起すという結果しかもたらさなかったものらしい。
夕方になってから、やっと彼は彼女と二人きりになれた。・・・
「ぼくのことを怒ってはいなだろうね、サリー?」彼は唐突にいいだした。
彼女は静かに目をあげると、なんの感情もあらわさずに、彼を見つめた。
「あたしが?いいえ、どうして怒らなきゃいけないの?」
彼はどぎもをぬかれて、返事もしなかった。・・・やっと唇があくくらいのおだやかな微笑を浮かべて、彼女はもう一度彼を見つめた。目が微笑しているといったほうがよかった。
「あたし、まえからあなたが好きだったのよ」彼女はいった。
心臓が、あばら骨にぶつかるほどどきりと動悸したかと思うと、さっとほおに血がのぼってくるのが感じられた。彼はむりにちょっと笑った。
「それは知らなかったよ」
「知らなかったのは、あなたがおばかさんだからよ」


{英国の文豪サマセット・モームの「人間の絆:1915年」(河出書房、大橋健三郎訳)の最後に近い所の一節(抄)である。}