生の倫理学

ひとの行動:
個の保存と種の保存の遺伝子(本能)の欲求によって、ひとの行動の全ては説明できる。
○個の保存:食欲、健康、 魅力、無病、運動、
      人間関係、才能、技能、提案力、論理的思考力、想像力
      人材に囲まれる。指導力

人は、一人では生きられない。個の保存ができない。互いに有無相通じ助け合わなければ生きられない。
一人では、種の保存ができない。

倫理学:欲求には中庸が大切(後記の現代倫理学概説、思想の科学by Dr.wisemanを参照)。
宗教:なぜ神様を信じなくなったかといえば、生活が楽になったからだ。人間はよくばりだから神様に願うことはいろいろあったけれど、いちばん大事なのは食べるものが充分にあって、みんなが無病息災で、災厄にもあわず暮らせるようにということだった。
なんのそれしきと思うのは現代人のおごりだろう。かつてはそれだけでも大変なことだった。科学技術が発達して食べるものはたっぷりと捨てるほどあり、医学の進歩で人はめったなことでは死ななくなり、大火や台風や地震の被害にも強くなった。だからもう神様はいらない。・・・なぜなら人間は自ら神様になってしまったから。しかしそうなると人生の目的も見えなくなる。家内安全と子孫繁栄、それが目的でがんばってきたのに、その点を保障されてしまうと何をすればいいかわからない。あなたは幸福なのですと言われても、実感がない。たしかに何も不満はない。けれども、かといって幸福とはせいぜいこんなことだったのかと考え込む。鍵は手に入ったが、今度はそれで開くべき鍵が見つからない。(池澤夏樹:「すばらしい新世界」平成11年11月23日)


共同生活を家族を核として行う。(個人のみでは生きられないから)その時、隣人愛、嫉妬、同情、憎悪、金銭欲、物欲、名誉心などさまざまの感情が共同生活のなかに生ずる。




○種の保存:性欲:両性の共同生活(含む結婚、同棲)
人 と人を結ぶのが恋愛(love)である。
愛って・・人間が種の保存つまり、生殖行動をする情欲を愛という言葉でごまかしているんじゃないのかな。僕の愛犬はメスだけど、さかりの時、しょっちゅう野良オス犬がきてたけど、あのメス犬の所に来るオス犬の本能みたいのが、人間が愛という言葉で表現してるんだと思った。うまくできてるね、生物のしくみって。
吾は、自然を認識する。他人も自然を認識する。吾も他人も同じく人間である。他人が死んでも自然は存在する。吾が死んでも自然は存在する。よって、自然は人間と独立して存在する。
自然に発生した微小蛋白質から進化して生物が生まれ、生物の中で、自然環境に適応して個および種の保存に最も成功したのが人間である。現在の人間のこの成功の所以を精神面から考察するのが、本稿の目的である。

現代倫理学概説、思想の科学 by Dr.wiseman
その7
II-1.生物的存在としての人間
  1)人間は生物としての生存のためのいくつかの本能的欲求をもつ。
 2)他の動植物と同様に、個体としての人間は、誕生、成長、死という生命活動に従って生き、またその限界を持つ。
<生存欲求>
 渇けば飲み、飢えれば食べ、疲れを覚え、休息を必要とし、また、種を保存したいと願う本能をもって生きています。
人間の生命活動、行動、思考のほとんどは、これらの欲求の充足のために行われるといっても過言ではありません。
人間の恋愛行為のすべては、種を保存したいと願う本能的欲求の現れとして位置づけることができますし、富みに対する欲望や名誉欲などは、食欲の社会的変容の姿として理解することができます。
人間の行為のすべてが、単に、生物学的自己保存の衝動に由来するかどうかは、もう少し厳密に考察する必要があると思われますが、人間が生物的な自己保存の本能をもって行動する動物の一種である。
人間の生物性を否定することは、人間そのものを否定することに他ならないのです。
 しかし、本来は生物学的自己保存のための本能的欲求であったものを、人間は、自己の状況と都合によって、際限なく発達させる能力をも持っており、この際限なく発達した欲求によって、人間が自ら滅びを招いていくことも、また事実なのです。
ライオンは自分が満腹の状態にある時は、側にどのように餌があっても、これを殺して食べようとはしませんが、人間は、かってのローマ帝国の貴婦人たちのように、自分ののどを棒で突いて、今食べたものを吐き出してまで、さらに美味しいものを食べようとします。
他の動物たちが基本的には同種のものを本能的に殺さないのと違って、人間は、その欲望のために同種の人間を殺してしまいます。
野放しにされた本能的欲求のすさまじさと危険性は、人間の歴史の中で幾度も証明されてきました。
肉と肉が争いあい、傷つけあって、殺しあうことは日常茶飯事として起こっています。
動物は、自己保存の本能的欲求と同時に、その欲求を制御する力もまた本能として備えていますが、人間はその制御本能を簡単に取り払ってしまうのです。
そして、制御のきかない野放しの欲求のいき着く果てが、自己自身の滅亡であることは実証済みの事実です。  日本における霊長類研究の第一人者であり、動物行動学者の河合雅雄が『森林がサルを生んだ』という著作の中で、頭蓋骨が割られた状態で死滅した日本ザルの群れの調査から、大変興味深い報告をしています。
 彼によれば、サルたちは初めは草原に住んで生活していましたが、草原は天敵も多く、敵の急襲にも逃げ場がなく、エサを取るためには他の動物との激しい闘争をくり返さなければなりませんでした。
サルたちの草原での生活は絶えざる緊張の連続の中にあったのです。
そこで、やがてこのサルたちは、緊張を強いられる草原を捨て、エサも豊富で、比較的安全な森林へと移動していきました。
森林では、立体的な木の上での生活が可能となり、生活空間が広がり、天敵からも守られ、草原で暮らしていた時のような緊張から解放され、生活にゆとりが生まれました。
この生活のゆとりによって、サルたちは、他の動物には見られないようないろいろな遊びを始めるのです。
サルたちは、段々と美食を覚え、やがて偶然なめた傷ついた仲間のサルの脳みそをの味を求め、本来は本能的制御能力によって行わないはずの同族殺しを犯し、仲間のサルの頭を割って、脳みそを手で少しずつなめて食べたらしいのです。
こうして、サルたちは同族殺しをくり返し、全滅していった、というのです。(*15)
 この点に於いては、人間は、この同族殺しをくり返したサルたちよりもひどく、古来から自分の欲望のために他の人間を殺すことをくり返してきましたし、古代人が食人種であったことは良く知られている事実です。
殺人は日常のこととして起こり、戦争という馬鹿げた行為で大量殺戮さえ行ってしまいます。
人間の欲望は、まことに、悪魔の住み家となり、やがては滅亡にいたることは明白です。
 こうしたことに対する自覚から、人は、欲望に対する動物的制御本能の変わりに、タブーや「ルールによる規制」、さらには「禁欲主義」という形態を生み出してきました。
これらは「人間の自己保存のための欲望放任の禁止行為」と呼んでも良いかも知れませんが、世界中のどの地域、民族や文化の中に共通に見出せる「禁止行為」であり、禁欲主義の歴史も、洋の東西を問わず、古くから主張されてきました。
タブーや宗教は、そこに大きな役割を果たして来ました。
 つまり、人間がもつ欲望を野放しにすることも誤りですが、それを頭ごなしに押さえつけるのも、また、誤りなのです。
古来から、そのバランスを取ることが大切であると考えられて、「中庸」が貴ばれてきた理由もそこにあります。
しかし、「中庸」は、その具体的中身をどのように考えるかが、時代や状況、文化や社会形態によって異なってくるのも事実です。
例えば、単純に「中庸の食欲」といっても個人差があり、「中庸である」と感じる感性も人によって異なるし、他の欲望にしても、倫理観の異なる人間や社会では、その「中庸点」も異なってきます。
従って、問題はもっと根源的に考えられなければならないのです。
つまり、問題は、人間が生物としてもつ自己保存本能とそこから生み出される欲求をきちんと認めつつも、その欲求が向かうべき方向を正しく指し示すことができるかどうかにあるのです。
近代以降、かっての宗教にかわって、この役割を最も良く果たすものとして期待されてりたのが人間の「理性」に他なりません。
人間はまぎれもなく「理性」をもつ生物なのです。
この「理性」については、後述しますが、たとえ最も良く働く「理性」をもったとしても、その理性で解決することができないで、ただ、認識することしかできない事実があります。
それが、「誕生し、成長し、やがて死ぬ」という人間の生物としての生命のメカニズムです。
理性は、それを認識し、受容し、そして、その意味を探り、それによって各々の過程での最もよい生存のための人間の在り方を提示しようとするのです。


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