新幹線をつくった男

7月22日(火) 晴れ
28℃、55%、noセット
29℃(朝外気温)、27℃(朝室温)、34℃(外気温11.00)



暑さにも慣れてきた。


新聞広告の見出しで、面白そうな記事がのっているようだったので、今日発売の「週刊朝日:8.1号」を、ローソンへ買いに行く。ザーットばらばら捲って眺めたら、あの悪評高い洞爺湖サミット(G8)にかかった総費用がなんと606億円だったと書いてあった。随分と無駄金を惜しげもなく使ったものである。


昨夜録画した「たけしのテレビタックル:2時間スペッシャル」を視る。自民、民主の若手が出演。何時もは両者の衝突、激論が面白いのだが、今回は両者共、官僚叩きで足並みを揃えていた。民主の3人は、政権をとったら直ちに“天下り全面禁止法”を成立させると、意気込んでいた。ねじれ国会で、それまで自民の陰に隠れていた、一部官僚の悪徳がばれて始まった、国民の憤慨を自民も押さえようがなくなったのだろう。
渡辺行革大臣が、阿川の問いに答えて面白いことをいっていた。阿川「ストレスの解消法は?」、大臣「うちのカミさんに怒られること」、阿川「国家公務員制度改革基本法が通過した時に流した涙について、何かいわれました?」、大臣「泣くな!バカ」と。
新設の、ホテルのように立派な共産党本部が紹介されたが、建設費85億円で、大部分は、40万党員の党費、カンパなどで賄われたという。


高橋団吉著「新幹線をつくった男 島秀雄物語」(小学館、2000年発行)をやっと読み終わる。
小さな活字で300頁に近い本なので、要約するのは難しい。島秀雄は、日本が世界に誇る新幹線の技術の生みの親といってよいだろう。彼は、旧国鉄の技術官僚としては、銀のスプーンをくわえて生まれてきたといえる。父安次郎は、鉄道省(JRの前身)で技監まで上りつめたが、「我ガ鉄道ハ狭軌ニテ可ナリ」という院議に署名捺印することを拒否して、職を辞したという信念に生きた男だった。
一高、東大機械科を出て、大正14年に入省した島秀雄は、昭和2年に私費で海外渡航して、西欧、北南米、南阿諸国の鉄道事情を調査する機会に恵まれた。さらに、昭和11年には、公費で出張、欧米先進国の鉄道事情の調査、研究を行なった。
既に父安次郎は、外遊の際に、1903年にドイツAEGが時速210.2kmの世界最高速を試験電車でマークした一部始終をみてきている。それで後継者の秀雄を私費外遊させたのであろう。このような歴史的背景があって日本の新幹線は実現した。秀雄は父の遺志を達成したともいえる。

新幹線は、昭和30年に就任した第4代国鉄総裁十河信二と副総裁技師長島秀雄の名コンビがなければ生まれなかったであろう。当時、新幹線に対して内外からの批判の高まりは激しかった、作家阿川弘之などは、新幹線を万里の長城、ピラミッド、戦艦大和と並べて「世界の四バカ論」を吹聴していたそうだ。
その上、国鉄の予算は、単年度制で、国会と大蔵省、所轄官庁である運輸省のコントロールの下にある。さらに政権は頻繁に交代するので国鉄に長期の巨大プロジェクトはなじまない。

新幹線調査室が見積もった所要資金は、少なくても5年間に総額3000億円強。この数字をみて言下に、十河は「これじゃ高すぎる。半分にしてくれ」といいはなったそうだ。ありていにいえば、新幹線は、国会、国民を欺いた上での見切り発車であった。

そこで世界銀行からの借款という妙案が浮かびあがった。この借款をすれば、政府が責任をもって事業の完成を保証しなければならなかった。しかし、先進国の技術水準を凌駕し、技術的に未経験の新幹線計画は世銀の融資の対象にならないという難しい問題があることが分かってきた。それを島は、「未経験の新技術は使わない」というポリシーを貫いて、乗り切った。
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新幹線には安全神話がある。しかし一時それが崩れかかった秘められた事故があったことが、本書で初めて明らかにされた。昭和41年4月25日午後7時半ごろ、東海道新幹線新大阪発東京行「ひかり42号」が豊橋市大岩町へさしかかったとき、車体の揺れがおかしいのに車掌が気付き、停車した。徐行運転で豊橋駅へ引き返し、乗客を全員後続の「ひかり」に乗り換えさせ、浜松工場へ移送した。台車の検証のために車軸を外した途端、バーン!という大音響と共に崩れ落ちたという。車軸の折損である。「脱線しなかったのは天佑という他なく、もし脱線墜落して1000人以上の死傷者を出したとしたら、新幹線は終わっていただろう」と島は遺言に書いている。

問題の折損車軸は、住金製で、高周波焼入れが戻っていて、強度が落ちていたことが判明した。以後、住金側では、新幹線用車軸の生産を他の在来線用車軸の生産ラインと峻別して、より徹底的な品質管理を実行した。国鉄側でも、超音波探傷、蛍光探傷などの新技術を駆使して徹底的な品質管理を行なったという。その結果、新幹線神話がまだ潰れないで残っている。