告別式



11月24日(土)晴れ
24℃、40%(加湿)、24℃セット
7℃(朝外気温)、14℃(朝室温);11℃(外気温)(9.30)


若き日ははや夢とすぎ  わが友みな世を去りて  
あの世に楽しく眠り  かすかに我を呼ぶオールドブラックジョー
  *    *

中学以来の友人(同級生)である開業医のY君の告別式に行った。享年85歳。滑り転んで足を骨折して1年ほど闘病生活していたが、肺炎で亡くなったという。下の写真の中央はY君である。
若いころ、家内が「腰が痛い、腰が痛い」と嘆くので、整形外科医をしていたY君に相談をしたら、「診てやるから、来い」といわれ付き添って彼の医院へ行った。腰部のレントゲン撮影の結果は、腰椎間の軟骨に小突起があるのが原因で治すのは難しいという。30年ほど前の、箱根1泊の中学同窓会の時に「S(私の姓)の美人の奥さんの裸を見たのは、俺だけだ」と、酒が入ったYが冗談めかして自慢していたのを思い出す。その元気なYも今は静かに眠っている。
斎場は、京成線お花茶屋駅近くの四つ木斎場。時間は10時から11時と、電話口の同級生A君は言った。朝早い上に、下町の交通に暗い私は、何時に家を出たらよいのか迷った。

超几帳面な家内は時刻表を調べた末に7時には家を出るのがよいと結論をだした。よって早朝6時に家内に叩きおこされ、牛乳1杯を飲んだだけで、あわただしく服装を整え、家内の運転で藤沢駅に送り出された。東京駅に8時ごろ着く。山手線で上野駅へ。京成上野駅へ向う。乗って10分位でお花茶屋駅に着く。タクシーを拾って斎場へ9時前に着く。葬儀屋以外誰もいない。馬鹿みたいな話である。遅刻よりましと諦めるほかない。斎場がホテルみたいに立派というか豪華なのにびっくりした。することがないので、広い駐車場兼前庭にでて、フォーサイトの写真を撮った。

間もなく2階の待合所に案内されて柔らかい椅子に腰をおろして、暫く休んでいた。その間にお茶が出た。向かいに40歳前後の恰好のよいカップルが腰を下ろした。
「どういうお知り合いですか」と尋ねたら、
「長年お世話になっている患者です。先生は、外科、成形外科、内科と、産婦人科以外は、1人で何でもこなします。処置が早くて患者を待たせないので評判がよいです。息子さんが後を継いでおられるが、お子さんがいないので、3代目が心配です。ところで貴方は先生とどういうお関係ですか」と逆に訊かれた。
「中学の同級生です。先生は終戦の時は軍医将校で満州にいたが、運よくソ連の捕虜になる前に朝鮮を通って逃げることができたので助かったそうです。」などと答えて、話が弾んだ。名前まで訊かれた。後日2代目の先生に私の話をするためだという。

焼香が済んだ後、弔電の披露があった。テレビに嫌というほど出まくりの自民党平代議士Hと某大臣Kからである。医師会と自民党がつるんでいるからかもしれない。巧みな選挙戦術である。民主党も、日常活動で頑張らなきゃ!!

帰り際にふと振り返ったら、中学同級のHがいた。お互いに顔、容が老けて変ったので、遠見では気付かなかったようである。一緒に歩いてお花茶屋駅へ帰る。東京駅に出るには日暮里で山手線に乗り換えた方が便利だと、彼に教えられた。車中、「田舎に時々墓参するのか」と尋ねられた。彼と私の墓地は同じであることを、彼は知っている。「この年になると、体が辛いのでこの数年行っていない」と返事をしたら、首をかしげて、
「俺は年に2回行っているが、君の墓には何時も花が飾られており、先日はビール缶も置いてあった。時代を感じる立派な墓だな!」と、不思議がっていた。私も不思議で、「弟が行っているのでないか」と返事しておいた。死ぬのも大変だが、死者のお守りも大変である。

まだ陽が明るいので、秋場原駅で独り降り、ダイビルのコーナーにあるおしゃなたカフェEXCELSIORの贅沢な肘掛椅子に坐って、メイプルシロップ・ミルクティーと菓子パン1個で、朝、昼飯兼用の遅いランチを摂った。腸が弱い私は、小食の方が具合がよい。