自伝「子持ちの女は半人前なんて」

11月25日(日)晴れ
24℃、35%、24℃セット
6℃(朝外気温)、15℃(朝室温);16℃(外気温)(12.00)


11月20日のブログに書いたT.S(立中修子さん)さんの自伝本「この扉は開けてみせる:子持ちの女は半人前なんて(2003年発行)」が、AMAZONから着いたので、早速読んだ。勤務先から当事者まで、全て実名で公表されている。当時同じ職場にいた者として、立中解雇―裁判騒ぎの、立中さん側からみた真相を改めて理解した。
一読後の感想は、立中さんは“鉄の女”だなというここと。花の高度成長期といわれるが、この期間もこのような嫌な事件を契機として女性の地位向上は進んだ。少子化の現在では信じられないような、「結婚したら、子どもを持ったら」女性社員は自発的退職または解雇という雇用慣行に対して戦った女性史に残るであろう自伝である。この本に実名が載った人々の大部分は亡くなっている。私は、この件に関与していなかったので、名前は載っていない。以下概略を、感想をつけ加えながらメモ書きする。


立中さんは、昭和19年に鹿児島県で複雑な家庭環境を背景にもつ母子家庭で生まれ、育った。中学卒業後、岐阜県の紡績会社で女工として働く。その間、「いい音楽を安く」聴くために労音のサークルに入った。これが問題の始まりだった。やがて肉体労働では、一生働くことができないと感じ、上京し、電話交換手の資格を得た。そして横浜三ツ沢公園の外れの高台にある、風向明媚な環境の新設企業研究所に交換手として採用された。若い人が多く楽しい職場なのでここで定年まで働きたいと思ったそうだ。


昭和41年11月1日の朝礼のとき、研究所長が「突然、ここには頭の赤いネズミがいる。労音はアカだ。中国の共産党から金が流れている」という発言をしたと、立中さんは書いているが、この点は私の記憶にない。この所長は、出世欲が強く、会長の鞄持ちとして日中友好のためにしばしば訪中していた。中国情勢に詳しいというので、所長の発言は説得力があった。その頃から職場での労音即アカという攻撃が始まったようである。私も、雰囲気にのみこまれて、そのお先棒を担いでいたかもしれない。

当時立中さんは、事務室長に「交換手という仕事は会社の情報センターだから、とくに気をつけてほしいんですよ」、「労音はアカだから行かない方がいいですよ」、「女性は世間のことは何も知らない方が仕合わせなんです」と説得されたが、馬の耳に念仏だったという。この時、室長のいう通りにしていたら、どうなっていただろうか。昭和42年4月に結婚退職制が適用されるようになったので、結婚したら、この心地よい職場を出なければなかったであろう。

間もなく組合活動家の立中勲さんと親しくなる。人事課長に呼ばれて「あなたは立中君とつきあっているそうだけど、結婚するつもりですか」と聞かれ「そのつもりです」と答えたら、課長は「あなたが結婚して会社を辞めれば何もいいませんよ。でもつづけるとなると、あなたを情報センターである交換手においておくわけにいかないんですよ」と圧力が加わり、交換手から受付に配転された。


結婚翌日の4月1日付けで、彼(立中勲)に「1年間の京都大学派遣」の内示があった。間もなく事務室長から「結婚で辞めて、彼と一緒に京都に行ったらどうでしょうか。何なら京都で仕事を探してやってもいいですよ」と勧められたが、断わったそうだ。やがて妊娠、昭和44年1月、産休に入った。その前日、室長に呼ばれ「産休明けに現職を期待してもらっては困ります。仕事を変えます。事務職とはかぎりません」と言い渡された。そして夫には無期限の派遣延長も。


事務室長の辛い気持ちはよく分かる。すべては研究所長の指示に従ってやったままである。彼は、この当時の心労のせいか定年後間もなく亡くなった。所長は、社長、会長、相談役を歴任後、94歳まで長生きして、今冬亡くなった。私を評価してくれた恩人なので、悪くはいいたくないが。


産後、独身寮の‘まかない’へ配転された。納得できずに、産休明けに元の職場に出ると、立中さんの机も椅子もなくなっていて、居場所がなかった。そして解雇。昭和44年、不当配転・解雇撤回を求める地位保全仮処分申請を横浜地裁にした。その後労働組合の応援など色々あって、80年和解が成立。解雇撤回、(株)鋼鈑ビル事務職として復帰、解決金を支払うという内容。

以下、長くなるので省略する。