参謀瀬島龍三


11月21日(水)晴れ
24℃、37%(加湿)、25℃セット
7℃(朝外気温)、15℃(朝室温);13℃(外気温)(13.30)


午後、柔らかい初冬の日差しを浴びなはら、庭のテラスでのんびりとコーヒーを飲んで至福の時を過ごす。運動不足を補うために、芝生でしばらくゴルフクラブの素振りを行った。足さえ元気なら、今日は絶好のゴルフ日和なのだが、残念である。


保坂正康著「瀬島龍三参謀の昭和史(文春文庫:1991年発行)」および共同通信社社会部編「『瀬島龍三』とは何だったのか 沈黙のファイル(新潮文庫:平成11年発行)」をやっと読み終えた。


今年9月に95歳で老衰のため亡くなった(詳しくは文芸春秋:2007年11月号)瀬島氏は、大本営参謀として、あの太平洋戦争の作戦を主導し、戦後はシベリヤ抑留11年という凄惨な体験をし、帰国後は、45歳で伊藤忠商事に女子社員の身分で入社、実績を挙げてとんとん拍子に出世して、昭和53年には会長にまで登りつめた。やがて中曽根元首相に認められて第二臨調の委員となり、ここで頭角を現して土光会長の参謀長の役割を果たした。以上のような特異な経歴と謎の持ち主の瀬島氏だから、瀬島氏イコール昭和史と言ってもよい。しかし自らは真実を何も語らないと、著者はいらだっている。

以下、特に印象に残った事項をメモする。

瀬島が属した大本営の作戦課は、戦争指導の実質的な起案を行う部門であり、作戦課が起案し、天皇の許可を得て発せられる命令(いわゆる大本営の命令)は、日本陸軍にあっては天の声といった意味をもっていた。すなわち日本陸軍は、現地を知らない瀬島らによって将棋の駒のように動かされたのである。その結果、多くの将兵ガダルカナルフィリッピンさらにビルマなどの外地で戦死、餓死したという悲惨な結果が齎された。

第一臨調は、池田内閣のときに、肥大化する行政に対して歯止めをかけるという目的のために設けられた。しかし行政改革はその後の内閣で無視され続けた。昭和55年に誕生した鈴木内閣は、「行財政改革」に政治生命を賭けると約束した。

瀬島は第2臨調の‘裏臨調’を仕切って、参謀時代に培った手腕を発揮したという。

共同通信社の本は、以上の保坂氏の本を補充している。伊藤忠入社後に、インドネシアや韓国の戦後現物賠償に、陰で動いて伊藤忠に大きな利益を齎し、越後社長の目にとまったのが、出世のはしりだという。