小泉政権・・・非情の歳月

家内が、ヒステリックに「食べろ、食べろ」というが、胃腸の方がついていけない。それで昼食後に、腹ごなしを兼ねて生協へ胃腸薬を買いに行った。暑い、暑い!!

佐野真一著「小泉政権・・・非情の歳月(2006年8月発行)」を読み終えた。小泉ブームを支えた男と女、すなわち飯島勲秘書、田中真紀子小泉信子の、ノン・フィクションライターによる物語である。下衆(げす)根性の抜けない私には、これら陰の実力者の内幕が面白かった。


まず、飯島秘書:
長野県辰野町が郷里で、敗戦の年の10月に生まれた。本人は酷い貧乏暮らしで大変苦労したと言っているそうだが、当時は誰もが貧乏だったので、まともには受け取れない。問題は知能遅れの姉妹弟3人を抱えていることである。今でも、施設にいる彼らをどう支えていくか頭を悩ませてしているという。聞くも涙である。
工業高校の定時制時代に、周囲の反対を押し切り、布団一枚を担いで上京。電機大高校の編入試験を受けるため、頼み込んで学校の当直室にこの布団を敷いて一週間も寝た。絵が好きだった飯島は、昼間は銀座で似顔絵を描くなどのアルバイトをして日銭を稼いだ。高校4年のとき、志賀特許事務所に図工として勤め始め、それから夜は電機大の短大に通った。同居の友人は彼が寝ているのを一度もみたことがないという。それ程の努力家だった。ある日アルバイトの仲間から小泉が秘書を募集しているのを聞きつけた。小泉が二回目の出馬で当選した昭和47年のことだ。そのときの小泉の印象は?「教会の牧師に会ったような感じですよ。騙そうと思えばいくらでも騙せるような。はっきり言って、僕の姉妹弟を見るような感じだった」

よからぬ噂が常につきまとう飯島のような男がクビにならずにやってこれたのは、他人の言動に寛容な、というより自分以外の人間の言動にはまったく無関心な「変人」小泉だったからのようである。


田中真紀子
角栄の生家の裏手のこんもりした丘に角栄夫婦が眠っている。この墓がつくられたとき、墓石の側面に田中真紀子という文字が角栄の戒名より大きく刻まれていた。それを見た真紀子の長男の雄一郎が、「まるでお母さんの墓みたいだね」と冗談めかしていった。この一言に真紀子は逆上し、その文字を一晩で削れと周囲に命じた。二人の関係はこの一件からこじれ、雄一郎が真紀子の意に添わぬ相手と結婚したことにより、母子の決裂は決定的となった。角栄の資質を最も受け継いだといわれる雄一郎は、十代の頃から、「自分の跡を継ぐのはお前だ」と角栄にいわれて育った田中家の三代目である。


小泉信子

小泉首相と公邸で一緒に暮らす姉信子の実態はいくら探っても闇の中で分からないと著者はいう。結論として、信子は小泉の秘書や姉という以上に、「母」であり、「妻」ではなかったか、と疑問を呈している。
なお信子の姉道子の元夫、つまり小泉の元義兄竹本は、ドロボウ生活が長く、今刑務所にいるという。その娘である純子は、何故か道子の父純也の籍に入り、養女になっているという。純子は公邸に通って、小泉の身の回りの世話をあれこれとやいている。複雑な家族だ。
昭和53年、小泉は、エスエス製薬の創業者の孫娘で、当時女子大生だった佳代子と結婚した。二人の間に三人の男児が生まれたが、結婚から4年後に離婚した。離婚話の最終局面で佳代子が「私をとるのか、家族をとるのか、どっちなの」と小泉に詰め寄ると、小泉は「僕は姉たちいなかったら政治家としてやっていけない」と答えたという。