淋しき越山会の女王

薄曇り空だが、爽やかな初秋の風が吹く。気候の急変についていけず、少し風邪気味。

佐藤昭子著「私の田中角栄日記(平成13年発行)」を読み終わる。
田中角栄については、コンピューター付きブルトーザなどと、その超人的な頭脳(記憶力、構想力、気配りなど)と馬力が有名であり、その具体的事例が数多く、本書で語られているが、既知のことなのでここでは省く。

著者の佐藤昭子は、改名前の名は「昭」で、田中角栄失脚のきっかけとなった、文芸春秋の「淋しき越山会の女王」という記事で一躍時の人になった佐藤昭である。彼女は15歳で天涯孤独となり、叔母の営む柏崎市洋品店を手伝っていた17歳の時に、田中角栄が知人に「今度、衆議院議員に立候補する田中さんです」と紹介されて入ってきたという。そして選挙を手伝ってくれと頼まれて、婚約者と一緒に手伝ったそうだ。間もなく婚約者と結婚して、夫は田中が東京、飯田橋で経営する「田中土建」の下請け会社を作り、田中を頼って二人で上京した。初めは順調だったが、朝鮮特需後の物価上昇で事業は苦しくなる。夫に女ができるというお決まりのコースで離婚した。

就職先を探していた時、偶々田中に再会して「僕の秘書にならないか。給料は2万円(当時としては破格の厚遇」」と誘われたのが、“越山会の女王”になるきっかけだったという。それ以来、二人は一心同体で総理、総裁を目指して頑張った。やがて二人の間に女子誕生。将来ある政治家に認知を求める気はなかったそうだ。後で田中がよく話したそうだ。「始めて会った時、おまえに一目惚れしてしまったんだ。あの時、連れて逃げようと思ったんだが、堅気の娘だったし、もう婚約者もいたからな」と。乱暴な男である。「英雄豪傑色を好む」といわれるが、田中は目白の正妻の他に、神楽坂に認知した男の子二人を持つ。それ以外にも、女出入りが色々とあったようで、佐藤は、頼まれてその後始末をこなしたそうだ。

若い小沢一郎とは「イッちゃん」、「ママ」とよぶ間柄だったようだ。

ロッキード事件を、「アメリカの虎の尾を踏んだ田中角栄」として総括している。田中の資源外交、アジア太平洋構想をアメリカが警戒して、田中を失脚させたという。小沢も万一総理になったら、このような目に会うかもしれない。もし、そうなったらアメリカは底知れない恐ろしい国だ。

ロッキード事件のとき、田中の政治団体の金銭出納帳、仕訳帳、銀行通帳などの書類を押収され、これらの書類を細かく調べた上で、検事の取調べを受けたが、ロッキード事件の5億円については、一切聞こうとはしなかったそうだ。これが、もし事実なら所謂国策検挙のはしりで、田中は限りなく冤罪に近い。

田中が脳梗塞で倒れた後の昭和61年4月に、日中友好協会の招待で中国へ。北京では「田中総理の乗った紅旗ですよ」という車で、万里の長城故宮などを案内された。その後各地を巡り、蘇州の迎賓館では「田中総理もここで食事をされた。病気が治るまで何年でも、ここで静養してほしい」と温かい言葉を受けたそうだ。「中国の方の、信義を重んじる暖かい友情に感謝している」と述べている。
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小泉の靖国参拝にからむ後遺症で、今も反中国論がはびこっているが、中国は、隣国で、日本とは歴史的に関係の深い国である。色々の経緯はあるが、信義を重んずる中国の人と仲良くした方がよいのでないかと思う。