サーフィン

今日も食堂温度35℃と暑い。気温に反比例して株式市場は日経平均が1万6千円を割るなど冷え始めている。静かに潜行していたアメリカの住宅バブルが弾けて、世界的株安になったという。今までアメリカが需要過多で世界の経済を引っ張っていたのは、情報産業(GoogleのようなIT企業など)の繁栄によるものといわれていたが、やはりモノ作りが経済の原点にあるようである。
お蔭で112円/ドルと円高になり、今後の日本経済への悪影響が懸念されている。日銀は今日1兆2千億円の資金を金融機関に供給したそうだが、これが、前のバブルの時のように不良債権化して、国民の負担になることがないことを願っている。


我が家は、湘南の海に近いので毎年一度は鵠沼海岸へ、ぶらぶらと夏の気分を味わいに行ったものだが、海水浴をするわけではないので、砂浜の焼けで熱中症になるおそれがあり、今年は諦めた。


湘南の海といえば、週刊誌をめくっていて、あの耐震偽装事件で一躍有名になった代議士馬渕澄夫氏(‘60年生まれ)にまつわる面白い記事にぶっつかった。彼は、田中角栄の影響で土建屋から政治家になろうと思ったそうだ。ところが受験に失敗し。浪人生活を送ることになったが、現役で合格した親友のつきあいでサーフショップをのぞいてから無性にやりたくなって、友人と湘南の海に繰り出したそうだ。キャンパスが湘南に近く、海のそばに下宿すれば、サーフィン三昧の日々を送れると思って、受験先を横浜国立大学建築学部)に決めて頑張った。翌春、無事合格して、望みどおりの下宿が大磯に見つかり、授業の前に波にひと乗りするのが日課となったという。サーフィンにのめりこんでも不思議と政治への想いが萎えることはなく、仲間と安酒を呷っては、「日本を変えてやる」と息巻いていたそうだ。あの頃は、怖いものは何もなく、何でもできると思っていたそうだ。戦後生まれの若者には、無限の可能性が秘められていたということか。


ところでサーフィンが湘南ボーイの間にひそかに拡がりだしたのは、1060年代半ばだったそうだ。鵠沼海岸近くに住む貧乏少年小室正則氏が、1968年に全日本ジュニアチャンピオンになり、BOLTという欧文文字と稲妻マークをつけたサーフボードを売り始めたのが1973年。この登録商標をつけたボードが売れに売れて、小室氏は一躍大成金になったそうだ。しかし無茶な経営が祟って、倒産、離婚そして15歳年上の姉さん女房のお蔭でやっと立ち直ったという。高度成長期には、多くの嘘みたいなことがあったようだ。当時は、仕事とゴルフにかまけて、このようなエピソードは知らなかった。