思い出の軽井沢

昨日は暑かった。特に群馬県館林市では40.2℃と日本記録に近い気温だったとか。そして東武鉄道のレールが曲がったので、水で冷やして直したとか、今朝のニュースに流れていた。今日は記録を更新して、熊谷市で40.9℃だという。


暑い!暑い!我が家の昼の屋内気温は35℃もあり、じーっとしていても汗がにじみでてくる。それで、庭のテラスのタイルに水をながしてから、パラソルを張り、その下で暫く週刊誌を読んだ。僅かな風があるので、屋内にいるよりも涼しい。東京電力に協力して、昼間はなるべくエアコンを使わないようにしている。しかし夜はエアコンを使い通し。熱帯夜が続くので仕方ない。


昔、昔、軽井沢に短期間滞在して消夏したことを思い出す。会社の幹部の別荘が北軽井沢の法政大学村にあった。その幹部は、某陸軍中将の婿養子で、この別荘を相続した。固定資産税などの税金を会社が肩代わりするという約束で、会社の保養所になったといういきさつがあったようだ。それで希望者は申し込めば空いている時に、ここで過ごすことができた。

結婚後間もない私は早速申し込んだ。当時は北軽井沢へ通ずるバスはなく、屋根のないトロッコ電車で、半腰状態でのんびりと行ったものだ。別荘は1千坪くらいの広大な山林の庭の端にある、戦前風の日本家屋である。ここの涼しい静かな環境で、若い私たちは二人きりでのんびりと過ごした。夕方散歩すると、近くに‘田辺元’とか‘岩波茂雄’などの有名人の表札が見えた。夫人を亡くした老年の哲学者田辺元と、近くに別荘を構え未亡人になっていた作家野上弥生子が、その頃「高度に知的な愛情関係」(俗な表現では‘老いらくに恋’)にあったことは、後に本を読んで知った。別荘地には店舗は見当たらなかった。どのようにして、食料を入手して過ごしたか、全く記憶にない。


翌年長女が生まれて、間もなく工場へ転勤になった。昭和40年頃戻って、今度はニッサンの‘オースティン’に、長女と3歳位の幼女だった次女を乗せて、碓井峠の砂利道を越えて、再び北軽井沢の別荘へ行った。別荘地に勿論舗装はなく、砂埃を立てて近所にご迷惑をかけた。冷房のない長時間の旅に参ったのか、次女は熱を出してうめき始めた。慌てて村の小さな医院を探して診て貰ったが、大したことなく、幸いにも注射で直ぐ回復した。ここで数日過ごした後に、浅間山の麓鬼押出し草津、万座を通って帰宅した。当時は高速道路は無く、マイカーも少ないので、道は空いていた。

それから約20年経ち、長女は嫁に行き、大学生の次女と3人で、オースティンよりも少し増しな車で、がらがらに空いた上越高速道を通って草津温泉へ1泊旅行した。帰途、千ヶ滝などを横目に軽井沢の舗装道を通り抜けたが、8月末の別荘地は人影なく、ひっそりとしていた。

間もなく、寡夫田辺元の心境が理解できる年齢になった。