広島、長崎の思い出

今日は、原爆の日。1945年8月6日、原爆が世界で始めて広島に投下された。あの日は学生で東京にいたので、翌日ごろに広島に新型爆弾が落ちて大変な被害があったというニュースを新聞かラジオで知ったこと以外の記憶はない。間もなくして、それが原子爆弾であることが明らかになって、それが原因となり、ソ連の参戦と相俟って、8月15日に敗戦(終戦)の詔勅が発せられたことになる。


それから4年位過ぎて本社の技術部にいたころ、ある日突然上司からアメリカの某大手エンジニアリング会社の技師長M氏を案内して関西方面へ出張せよとの命令を受けた。一行は、M氏およびアメリカ某社の日本駐在員O氏(アメリカ人)および通訳としての某商社のH氏に私を加えて4人とのこと。英語は、読み書きは普通の日本人並みにそこそこだったが、会話は全く駄目で自信がないと言って断った。だが、通訳のH氏がついているから大丈夫だと云われて、宮使えの辛さやむを得ず一行に加わった。

第1日目は、旧川崎製鉄の製鉄工場を訪問後、大阪見物。道頓堀かどこかよく覚えていないが、ともかく夜の大阪の繁華街を散歩した。ところが、ホテルで別れる際に、O氏に早口で訳の分からない英語で酷く叱られた。きょとんとして、そのまま別れたが、後で通訳のH氏に聞くと「女性のいる所に案内しなかった」と怒っていたそうだ。私は当時、24歳若造の技術屋で、接待については何一つ教えられたことがない、こんなことで叱られるとは思いも寄らなかった。初めから言ってくれれば、軍資金はたっぷり預かっているので、お望みのようにしたであろうに! 占領国のお偉い人とは云え、先方からは切り出せなかったのだろう。

翌日は、姫路の旧富士製鉄の広畑製鉄所を訪れた。ここの日本で唯一つという厚板圧延タンデムミルは、中国向け賠償指定になっているようで、完全停止してひっそりとしていた。夜行で広島に向うため、一等寝台車に生まれて初めて乗った。

広島は、原爆後10年位は草木が生えないだろうと云われていたが、戦災を受けた他の都市と同じように復興していた。原爆の暗い陰は訪問者には分からなかった。勿論今のような立派な平和記念公園はなかった。ここで、アメリカ人二人が、熱心に神妙な顔で、例の原爆ドームの剥き出し鉄骨を眺めている様子が今でも不思議に頭に残っている。私はといえば、無感動だった。当時は占領下で、アメリカに都合が悪い報道は禁じられていた時代であって、原爆被害者の情報はほとんど流れていなかったからかもしれない。ここで今の三菱重工業の広島工場を訪れた。M氏が、厚板の突合せ溶接法についてアメリカの最新技術を教えていた記憶がある。ということは、広島の重工業は早くも立ち直っていたのである。

それから我が社の工場があるT市に移り一泊した。その際に、工場幹部がその筋の女性をあてがったようだ。翌日二人は物凄く上機嫌だった。お蔭で私の名誉挽回もできた。

次に長崎にある今の三菱重工業造船所を訪問した。この都市も広島同様に原爆被害から立ち直っていた。夕方、海が見下ろせる丘の上の料亭で歓迎の宴を催してくれた。気骨の折れるガイド・ツアだったが、お蔭で毎日、当時滅多にお目にかかれないような、山海の珍味のご相伴でありつけたのは嬉しい思い出である。