8月15日

敗戦(終戦)記念日である8月15日が近づいてきた。この日の受け止め方は、人により年齢により様々である。

老齢(67歳)だった、永井荷風は「(略)今日正午ラジオの放送、日米戦争突然停止せし由公表したりと言う。あたかも好し、日暮染物屋の婆、鶏肉葡萄酒を持来る、休戦の祝宴を張り皆々酔うて寝につきぬ」(断腸亭日乗日記)と、喜んでいる。

働き盛りで、報道班員としてビルマに徴用されたことがある、当時38歳だった作家の高見順は「嗚呼、8月15日。ビルマはどうなるのだろう。ビルマには是非独立が許されてほしい。私はビルマを愛する。ビルマ人を愛する。日本がどのような姿になろうと、東洋は開放されなければならぬ。人類のために、東洋は解放されなければならぬ。日蔭の東洋!哀れな東洋!」(敗戦日記)と、大東亜解放の夢が果たされなかったことを、残念がっている。

32歳で、1水兵として武山海兵団で、この日を迎えた林健太郎一高教授(西洋歴史学者、元東大学長)は、「私は自分の思い通りに戦争に敗けたし、しかも無事に家に帰れることになりそうなので、ただ心が浮き浮きしたが、他の人の敗戦の受け取り方は実にさまざまであった」(私の真空地帯)と喜んでいた。

当時大学工学部の学生で、後6ヶ月もすると、徴兵延期がきれる私も、「これで軍隊へ行かなくてもよくなる」と内心嬉しかった。

一方大学のクラスメートだったA君は「11時45分、安田講堂に集合。陛下御自ら放送の大詔を拝聴する。かっては年々卒業式に行幸を賜った安田講堂玉座の前に置かれたラジオよりもれる玉音。席を満たした2000人の感泣嗚咽、悲憤の涙。大東亜戦争は遂にその目的を達しえずして終結の止むなきに至った。しかもその最後に直面したものは、和平というような対等的なものでなく、一方的な敗戦である。我々はこの敗戦という冷酷な現実をはっきりと見つめなければならぬ。(略)」(自序文:道を求めて)と、高見氏と同様な残念がりである。

18歳の高校生だった中村 稔氏(弁護士、詩人)は「『玉音放送』がはじまった。(略)手伝いにきてくれていた親戚や近所の女性たちはぼろぼろと涙をながし、いつまでも泣きやまなかった。やがて放心したように手を休めた。私は若干の違和感をもって、その光景を見遣っていた。
そのとき、私が感じたことを正確に再現することは難しい。滑稽なことだが、私が真先に思ったのは、今晩から燈火管制が必要なくなり、明るい電灯の下で本が読めるということであった。やがて、眼前に迫っていた死が遠のき、生きのびられるのだ、という安堵感が私の心の底から湧き上がってきた。同時に、私ははてしない虚無感に襲われていた。戦争と軍部支配体制から開放されたことによって、かえって私は心ががらんどうになったように感じていた。私はどんな未来も展望できなかった。神がかり的な一部の軍人たちが依然として本土決戦に固執し、天皇に反抗するのではないかと危惧した。3月10日以来の大空襲、広島、長崎の原子爆弾からみて、占領軍の進駐によって、どんな行為が発生してもふしぎではないと思われた。そんな安堵感、虚脱感、不安がこもごもに私の心に渦まいていた」(私の昭和史)と、私が言い尽くせなかった想いを詳しく回想している。


小学2年の時に終戦を体験した解剖学者養老孟司氏は「教科書に墨塗りをした。価値観が逆転した。騙されたというのが、中心にある。正義やイデオロギーが信じられなくなった」という。