テレビ雑感

イラク派兵や改憲、消費税など様々な、時の話題についてのテレビ討論という番組がある。昔は、この種の番組をよく視たものだ。
相対する意見の持ち主のやり取りが面白いので。
しかし、この頃は自身の精神年齢が成長した?せいか、馬鹿々々しいので、滅多に視ない。何故馬鹿々々しいと思うようになったのか?八百長臭く感じるようになったからである。特に“報道2001”のように、司会者(竹村建一)が、初めから一方の意見に加担している場合は、視るに耐えない。


サンディプロジェクトという政治番組がある。田原総一郎が司会する番組である。昔、再婚した奥さんが生きていた当時は、奥さんのチェックがよく入っていたといわれるせいか、田原は比較的公平だった。しかし、奥さんが亡くなった後の田原の司会は憐れである。今では、総理の隠し金庫から月100万円を貰っているなどという噂が出る程度の堕落振りである。


某週刊誌で、宮崎哲弥氏が次のように、良心的出演者の苦衷を披露している:

“そもそも情報バライエティの出演者のポジショニングなんてほとんど意味がないのだ。例えば、まず「支持か、不支持か」で無理矢理色分けされて、「どちらでもない」と抗弁してみても、スタッフから「そのビミョウなところを本番でじっくり語ってください」などと押し切られる。
で、折角「ビミョウナところ」を一生懸命話しても、実際オンエアされたものをみると、肝心の部分があっさりとカットされていたりする。そういう事情だから、録画後に一定以上編集が施された番組における出席者の発言に関して、その最終責任はテレビ局が取る。“

以上のように、テレビは視聴者を小馬鹿にすることから始まっている。何年、何十年後には、テレビの視聴者離れが起こって、代わりにネットの隆盛時代がくるだろう。

そうは云っても、テレビに出ることは、5月5日に触れた草光澄子さんのようにステータスと考えている人もいる。この世は複雑である。もっとも、社長以下役員が揃って雁首を下げて謝罪しているシーンは様にならないが。