神と人間

私は、中学時代の自我に目覚めるころ、大人は天皇陛下を神様だと崇めているが、人間である天皇が何故‘神‘なのかと疑問に感じた。田舎では、誰もその理由を教えてくれない。尋ねること自体が不敬罪に当り、牢獄に入れられる恐ろしいことなのだ。東京に出れば、教えてくれる人もあろうかと期待して、真理を探求するという、東京の高等学校に入ったが、やはりここでも、私の知る限り口を閉ざして、天皇についての話は無かった。敗戦後の昭和21年元日に、天皇が「人間宣言」をされたので、すっきりした。

会社を辞めて暇ができて暫くしたころ、若い時に私のような疑問を抱いた人はいる筈だと思って、図書館にある「私の履歴書日本経済新聞社、昭和60年頃発行)経済人、文化人」約40巻を全部読んで調べてみた。青年期を戦前に過ごした著名人約400人の中で、唯1人このような疑問に触れた人がいた。渋沢財閥の一族である渋沢秀雄氏である。彼は一高時代に、この疑問を、当時東大法学部教授をしていた伯父の穂積重遠氏にぶっつけたそうである。ところが「大馬鹿者」と怒鳴られ、「今後このような不謹慎な言葉は絶対吐くな」と固く諌められたそうである。


天皇を現人神と呼ぶようになったのは、明治維新後に、伊藤博文等が統治の手段として、天皇を利用するためだったと、今では理解している。すなわち、政治は、従って法律は’神’をも創ることができるのである。選挙権は大事である。


天皇は神でなかった。それでは、キリストも神でないのか?これに対して、カトリック教徒である、作家の曽野綾子氏が短編小説「未熟」(新潮文庫:夫婦の情景)の中で、面白いことを書いていらっしゃる。以下に、要点を紹介する。
“聖書をどのように読んでも、キリストが結婚していなかった、という確固たる証拠はどこにもない。・・・汚れた肉と、高貴な魂というような発想は、ヘブライにはないのである。ユダヤ教を受けついだイスラム教徒たちは、結婚していない者のことをアザブ(貧しい者)とさえ言うのである。
「マリアが、キリストを生んだのは、13か、14だろ。男はローティーンで、結婚することをすすめられたんだ。ユダヤ教徒の社会、そのものが、いいと認めていたことに、なぜ、キリストが反撥する必要があるんだ」
「だって、キリスト様は、キリスト教なのよ。ユダヤ教じゃないわよ」
夫は侮蔑に満ちた目つきをした。
「ばか言え、キリストの一家は、骨の髄までユダヤ人として、ユダヤ教の影響の下に生きてきたんだ」
「じゃあ、一体、キリストは誰と結婚したのよ」
マグダラのマリアだという説もある。それとも、表には目立たないが、大工の時代に結婚した若い妻がいて、彼女は、キリストの伝導旅行には同道しなかったという説もある。・・・いずれにせよ、当時の社会風習からみると、結婚していない方が不思議なんだ」
「でも、神は別なのよ」
「ばか言え、そういうのは、本当のキリスト教じゃない。ギリシャ的考え方の悪影響を受けているんだ」
・ ・・・
泰子は、自分の信仰が犯された以上、自分はもう許せない、夫と離婚するほかない、と唇を噛みしめて考えていた。“