後藤新平

昨夜放映されたNHK総合ETV特集「東京を創った男:後藤新平」の録画を見た。東京には珍しいあの広い昭和通りが今あるのは、関東大震災後の帝都復興院総裁だった東京市長後藤新平のお蔭であること、および台湾が今でも親日的なのは、そこで民政長官として善政を敷いた彼のお蔭であることは知っていた。

でも東京を東西に結ぶ靖国通りの基礎を作ったことや、神田小川町周辺の区画整理をして、火災に強い街つくりを行ったことなどは知らなかった。また彼が、初代満鉄総裁だったことも始めて知った。彼は、大風呂敷の後藤と云われたように、日本には珍しいスケールの大きい人物だったようだ。

私の父は、昭和初期から東京市の一土木技師として働いていたとのことなので、震災復興にいくらかでも役に立っていたのであろうと、この点からも懐かしくこの放映を視た。


敗戦前後、私は武蔵野線(今の池袋西武線)の江古田駅近くに住んでいた。当時は、駅周辺の住宅地をちょっと離れると、一面の畑だった。その畑の間を縫って武蔵野線に沿うように、13間道路と呼ばれる、全く使われていない幅広いお化け道路(勿論、無舗装の)が走っていた。椎名町駅付近では13間道路に交差して同様に幅広いお化け道路が通っていた。若年で視野の狭い私は、こんな無駄な道路を作る予算があるなら、一台でも多く戦車を作ったらどうかなどと考えていたものである。これらの道路が後藤新平の構想の一環だったかどうかは分からない。新平の構想というか計画の殆どは、予算がなくて潰れたと聞いていたので、13間道路も構想の一部が未完成で残されたものかもしれない。“無駄な道路“と一時でも考えた自分が恥かしい。

改めて地図を見るとこの13間道路は、今は目白通りに名を変えて、その下を大江戸線が走り、さらにその西端は関越自動車道に連絡する重要な幹線道路になっている。椎名町駅付近で交差していたお化け道路は、今は山手通りになっているようだ。先人達の先見の明に恐れ入るばかりである。