シベリヤ抑留11年

東大鎌倉淡青会の今月の昼食会に出た。今日のスピーチのテーマは「シベリヤ抑留11年」で、講師は昭和18年の学徒出陣で、法学部を仮卒業された林 利雄氏である。テーマが重く、また生証人(といっては悪いが)の貴重な話に対する関心が高いためか、過去最大の出席者数だった。


スピーチ前の、いつもの出席者の自己紹介で、私は「工学部に入学したのは、昭和18年。林先生に申し訳ありませんが、学徒出陣のときは、休学をしてのんびりと過ごしていました」と言ったら、会場から笑いが出た。平和な世の中だなあ!! 戦時中に、こんなことを言ったら、早速憲兵に引っ張られただろう。

スピーチの内容をここで全部紹介するスペースはない。まず抑留の経歴に簡単に触れてから、印象深かった点のみを述べことにする。


満州経理将校として終戦を迎えた後に、シベリヤに抑留され、昭和23年にスパイ容疑で欠席裁判によって「刑期25年の強制労働」という判決を受け、ウラル山脈の北方にある酷寒の収容所で、朝鮮戦争が起こった昭和25年まで‘この世の生地獄’をみた。その後ハバロウスクに移され、俘虜(人質)として昭和31年の日ソ国交回復までこの地に止められたという。すなわち22歳から34歳までの青春をすべてシベリヤの凍土に埋めてきたことになるという、何とも残酷な話である。


収容所内は、民族の坩堝で、朝鮮人ユダヤ人などとも一緒になったことがあるという。見直したのは朝鮮人で、彼らは仲間を裏切る者(ソ連側に密告する者)を自分たちで制裁する団結心を持っていたが、日本人にはそのような団結意識はかけらもなかったそうだ。ユダヤ人は色々の点で優秀だったそうだ。

ロシア人は3日分位の食い溜めする習慣があり、それを強制されて閉口した。またロシア人は嘘をいうのが平気で、嘘がバレテもケロットしている。女囚は隔離されていたが、何時の間にか妊娠しているのが出た。子供を産むと、3ヶ月間強制労働を休めるのが魅力だったせいらしい。
戦前の私たちは現代史を殆ど習はなかった。それで林氏もシベリヤ出兵について知らなかったそうだ。しかしロシア人は恨みに思っていて、その復讐を込めて収容所で苛められたとのこと。
向こうの医者は全部女医だった、彼女らに、後ろ向きで尻を指で挟まれた時の肉付きの具合で、労働力を5段階に評価されたという。 



以上のような各民族の坩堝の中で生活してみて、日本民族のように単一民族として一億もの人間が一つの島の中で生活しているのが異常でないかと思うようになったそうである。