国民所得倍増計画

録画してあったNHK総合の「その時歴史は動いた:国民所得倍増計画」を視た。

この計画は大蔵省出身のエコノミスト下村治氏が提案、安保騒動で辞任した岸の後を受けた池田総理が取り上げ、昭和36年にスタート、昭和42年に実現したという。


その間中堅サラリーマンとして企業にいた私には余り実感がない。
昭和33年当時の月給は3万5千円位と記憶する。昭和42年には10万円程度だった。たしかに所得はほぼ倍増した。しかし、これは年齢が上がったことと、地位が少し上がったことのための当然の結果と受け止めていた。「所得倍増計画」のためとは夢にも思ってもいなかった。


その頃は、好景気が続くと輸入が増えるので貿易赤字となり、外貨不足のための金融引き締めにより、不景気になるとの繰り返しだったような気がする。不景気になると、経費削減を命じられ鉛筆1本の節約にも心がけねばならず、嫌なものだ。現在のように、貿易黒字(経常収支黒字)が恒常的に続くことはなかった。


今思えば私がいた会社が、昭和37年に横浜に中央研究所を設立したのも、その後も企業の間で中央研究所ブームが続いたのも、「所得倍増計画」に沿って、税法上の優遇措置がとられたせいかもしれない。


昭和40年ごろ、テレビ、洗濯機、冷蔵庫など三種の神器を一通り揃えた私は、日産の中古オースチン(英国からの技術導入により国産した)を50万円で買い、家内、幼児と共に軽井沢、草津、万座ラインのドライブを楽しんだものだ。楽しんだといっても、冷房無し、道路は全て砂利道で無舗装、砂煙を上げての半ば苦しいドライブだった。若いからできたのだろう。当時万座はひっそりとしていて、人影、車影がなく、誰に見られることもなく、家内らと道路脇の小さい無人露天温泉に浸かって汗水を洗い流したのも懐かしい思い出である。

自動車の技術導入やそれによるドライブが楽しめたのも、「所得倍増計画」によるものだとは、この番組を視て、初めて気付いたしだいである。

オースチンはしばしばパンクした。また故障も多かった。設計が背の高い白人向けになっているので、前方の見通しが悪く、事故に遭いかけたことが度々ある。それに比べると、いまの自動車は隔世の感がある。


宅建設、ゴルフ場造成や高速道路整備の大ブームが起きて、好景気が暫く続いたのは、所得倍増計画が達成された昭和40年代である。世界第2の経済大国になったといわれても、実感がなかった。
間もなく、第一次石油危機により、一気に不景気になった。