青春の和辻哲郎

雨の一日。「青春の和辻哲郎」(中央公書:昭和62年発行)を読み終わる。
著者の勝部真長氏は大正5年生まれで、和辻教授の東大時代のお弟子さんであり、身近に和辻氏を知る立場にあった。

和辻教授の表の顔は、哲学者、倫理学者というお固いイメージであるが、大学生時代は、谷崎潤一郎と共に「第二次新思潮」を編集、投稿したり、また小山内薫を師として自由劇場に出入りしていた。すなわち文学演劇熱中(放蕩)時代といえるそうだ。谷崎や小山内に大分精神的な影響を受けたという。明治44年、谷崎は授業料未納のため、大学から退学処分を受け、作家として立つ覚悟で背水の陣をしいていた。この頃和辻は「ニイチェ研究」を刊行している。


当時(明治43年)の日本は、一つの変り目であった日韓併合幸徳秋水大逆事件があった。ロシアから一文の賠償金もとれず、財政は火の車だった。夏目漱石が「三四郎」のなかで、「日本も段々発展するでしょう」という三四郎に対して、「亡びるね」と言っていた時代だった。


明治45年、23歳の時に、金持ちの令嬢で、津田塾を出た聡明な高瀬照と、当時としては珍しい恋愛結婚をした。そこに至るまでの経緯が面白い。本人が義父となる高瀬氏に結婚を申し込んで、了解を得たのちに、姫路の田舎在の父の了解を得ようとして手紙を書いた。ところが、父から仲人も通さないのはいけない、また順序が違うのでないかと言って反対された。
未だ父から生活費の仕送りを受けている書生の身であり、困った彼は懇願、懇願の手紙をいく度か出しやっと許しを得たという。今では信じられないような話である。

このような内輪話が分かるのは、賢夫人である照が、和辻氏の手紙、原稿その他一切を管理整理していてこれらの書類が残されているせいとのことである。つまり和辻氏は結婚後一切を夫人に管理されていて頭が上がらなかったそうだ。明治の男にしては珍しい。

結婚後間もなく、新居近くに住む先輩阿部次郎との親密な交友が始まり、学問その他の上で多くの指導を受けた。やがて和辻のほうから、阿部に妻を奪われるのでないかとの疑いから絶交してしまう。
その頃横浜の三渓園の原善一郎氏の知遇を得て、三渓園をしばしば訪れて、日本の美に開眼した。

名著「古寺巡礼(大正7年)」の奈良の旅は、原善一郎夫妻に和辻が同行し、美術論を戦わすなどして展開されたものという。

漱石サロンにも出入りしていた。

本書には、その他岩波派の有名人が多く名を連ねている。