日本の大学の学部

午前、昨夜録画したTBS「孤独の賭け」を視た。原作は五味川純平とのこと。舞台は東京オリンピック前夜。青年実業家を巡って、金、酒、美女が華やかに舞う。2千万円を借りるために体を張る、長谷川京子の演技が一寸光る。美しい映像の世界に自分が入ってしまうような陶酔感を味わうだけの、感動性のないドラマ。



その後、お堅い放送大学を見たら、偶々日本の大学と欧米大学との違いについて講義をしていた(講師は館 昭氏)。日本の大学では、例えば工学部というように“学”という言葉がついていて、学問というかサイエンスの意識が濃い。そのせいか実際のエンジニアリングについての教育が整っていない。本家のアメリカでは、school of engineeringという。
言葉の遊びのような気がする。だが、呼び名が微妙に心理的影響を与えて、行動に影響を及ぼしている事実も否定できない。

私の大学時代(工学部、冶金学科)は、戦時中と戦後を挟んだ混乱期に送ったから自身の体験からは、何も言えない。しかし、当時狭い廊下の両側に立てかけたガラス戸の棚にびっしりと、大正時代頃の卒業生が書いた卒業論文などが並べられていた。取り出して、覗いてみると、精錬所の実習報告書や設計図などで、当時主に学んでいた学問、手っ取り早くいえば金属学(金属の科学)と全く違うのに感心した遠い記憶がある。

明治、大正時代は、工学部でengineeringを主に教えていたものと思われる。昭和に入って、金属材料のミクロ構造が徐々に分かってきて、その学問が発達したものを冶金学科で教えるようになったものと思われる。engineeringは、卒業後に社内教育で学ぶようになった。

なお今は、冶金学科という名は消えて、マターリアル工学科になっている。‘冶金‘という古臭い名前では、駒場からの進学希望者が減る一方だからのそうである。さらに、金属とそれ以外の材料(セラミックス、プラスチックなど)は、共通の科学の上に立っているからのそうである。