日清戦争

午前、穏やかな春日のなかを1時間位かけてゆっくりと近所を散歩した。家々の庭に咲き匂う花を観賞しながら。こういう花を我が庭にも植えたいとは思いながら、体を動かすのが億劫で実現しない。

今中国の温家宝首相が来日しており、日中の雪解けムードが始まりかけている。温首相は、今日国会で演説して「侵略戦争は中国人民の心に言葉では言い表せないほどの傷と苦痛を与え、日本国民にも甚大な苦難と痛みを与えた」と述べる一方、「日本政府と日本の指導者は何度も態度を表明し、被害国に深い反省とおわびを表明した」と指摘したそうだ。

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両国間の不幸な歴史の始まりは日清戦争だと思うが、私が生れる前の戦争で全く実感がない。その上、日本が勝ったということの他は、余りにその原因、結果などを知らな過ぎる。それで少しおさらえをしてみることにした。以下は、主に「日本の歴史(21):近代国家の出発;色川大吉」(中央公書)と、ウィキペディアより。



当時(1894年、明治27年)伊藤内閣は、議会で野党の攻勢によって、絶対絶命の窮地に陥っていた。そこに天佑が訪れた。
6月1日朝鮮政府が東学党の農民軍に大敗して清国に援兵をもとめた。新聞論調は一夜にして急変し、朝鮮出兵をさけび始めた。
6月2日、政府は衆議院を解散し、公使館と在留邦人の保護を口実に1万人規模の大軍の出兵を決定した。6月4日、出兵開始、5日大本営を設置した。陸軍はこの日のために、早くから万全の準備を整えていた。
7月23日日本軍朝鮮王宮を占領。
7月25日豊島沖の海戦で、日清戦争が始まった。なお、宣戦布告は8月1日である。
豊島沖海戦の後、陸上でも日本軍は清国軍を破った。9月17日の黄海海戦で日本軍が勝利し、その後朝鮮半島をほぼ制圧した。10月に入り、日本軍が鴨緑江を渡り、遼東半島に上陸を開始した。11月には旅順・大連を占領した。1895年2月、清の北洋艦隊の基地である威海衛を日本軍が攻略し、3月には遼東半島を制圧、日本軍は台湾占領に向かった。


1895年3月からアメリカの仲介で、下関で講和会議が開かれた。4月17日 日清講和条約が調印された。条約の主な内容は次の通り
1. 清は朝鮮の独立を認める。
2. 清は遼東半島・台湾・澎湖島を日本に譲渡する。
3. 清は賠償金2億両を金で支払う。
(三国干渉)
当時ロシアは満州中国東北部)への進出を狙っていたため、遼東半島が日本領になることに激しく反発した。このため、ドイツ・フランスとともに遼東半島を清に返還することを要求した(三国干渉)。日本政府には、列強三か国に対抗する力は無かったため、これを受け入れ、その代償として清から2億両を金で得た。以後、日本はロシアを仮想敵国として、清から得た賠償金で八幡製鉄所を建てるなど国力充実をはかった。
戦争後、欧米列強各国は清の弱体化を見て取り、中国分割に乗り出した。ロシアは旅順と大連、ドイツは膠州湾、フランスは広州湾、イギリスは九竜半島と威海衛を租借した。
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 第一高等学校(旧制)の寮歌「都の空・・・(明治37年)」の第九節の「あはれ護国の柏葉旗、其の旗の下我死なん」は、
当時の学生にとっては、内部から自然にあふれ出た憂国の叫びであって、それは同時に、日清戦役の戦果を三国干渉によって奪い去られた、日本国民全体の臥薪嘗胆の対露感情であったといわれる。
日露戦争は起こるべくして、起こったと思われる。満州事変、支那事変(中国侵略)および太平洋戦争の遠因は、この頃に根差していたと思われる。歴史的必然性だったのだ。軍,官、民が協力してといわれても仕方ない。