「欧州紀行」を読んで

横光利一氏は昭和11年2月22日に南周りの船で、ヨーロッパ視察旅行に出発した。「欧州紀行」は、その約半年間に書かれた日記に基づいている。
上海、香港、シンガポール、ペナン、コロンボ、アデン、スエズ、カイロ、マルセイユを経て、3月28日にパリーに着いた。
5月4〜9日ロンドン滞在。往復は飛行機。
6月17日にパリー発、ストラスブルグを経て、ミュンヘンへ。19日にインスブルック着、午後チロルの山に登る。21日からウイン、ブタベスト、ベニス、フローレンス、ミラノ、ロザンヌを回って7月3日にパリー着。
7月24日パリー発、ベルリン・オリンピックを観てから、シベリア鉄道に乗って8月20日に満州里に着く。

日記であるから、見た風景の描写、感想、小耳に挟んだ話など色々なことが雑炊のように含まれてれている。その中で、特に印象に残った点のみをここに書き置くことにする。

船中では、高浜虚子とそのお嬢さんと食卓が一緒だった。「旅愁」の中で、矢代が千鶴子との結婚に際して仲人を頼んだ東野さんのモデルが高浜氏かもしれない。千鶴子の中に、このお嬢さんの影があるのでなかろうか。パリーでは岡本太郎画伯に世話になった。
旅愁」の中の写真家盬野氏のモデルは、岡本氏かもしれない。


「綿布の仕事に従事して世界を回ってきた船客が、『ああ、もう世界は、ユダヤ人と印度人と支那人とで、廻っていますよ』と投げ出したようなことを云った」(3月19日)そうだ。
70年前にもそうだったのだ! アメリカを実質的に動かしているのはユダヤ人だと考えれば、今後50年も経たないうちに、世界は完全にそうなるかもしれない。小さい国の日本人はどうなるのだろう?


「フランスがソビエト化することは、ヨーロッパにとって、一大事件に相違ない。しかし、容易に染色すまい。それよりむしろ、全く反対の独逸の方が、フランスの先手を打ってソビエト化する多くに条件を備えているように思われる。最右翼と最左翼は紙一重の差があるばかりだ。一つは感情の壮烈、一つは理智の先鋭。」(6月10日)
結局独逸はソビエト化しなかった。


「金銭と人情は全く同様のものだという信念を得ることの難しさが、パリーの難解な第一歩だ。さらに、次の難解さは男女間の倫理である。」(7月21日)
教育勅語の道徳の下にいた横光氏が、パリーを理解し難ったというのはよく分かる。
戦後になって、日本人はパリーを容易に理解できるようになった。ホリエモンは、人情よりも金銭の方が大事だと言っていたような気がする。


「次回のオリンピックが日本と決定する。逢う日本人は互いに顔を見合わせた形だ。どことなく誰もががっかりしている。」(7月30日)
ベルリンに匹敵する文化を引き摺りだす自信が誰にもないかららしい。


「この戦争に負けたなら、直ちに日本は勝った異国から武器製造の禁止にあうだろう。・・・武器が許されないのであるからわれわれの子孫は五代十代は殺され続けていくだろう。・・・」(スフィンクス:覚書より)

今思えば、当時私たちは絶えず、無言のこのような恐怖の中にいた。異国が寛大なアメリカでよかった。武器は禁止されたが、殺されなかった。支那に対して日本は永い間、むごいことを散々してきた。その仕返しを恐れていたのであろう。だが、日本に賠償金すら請求しなかった。国土面積が大きい国は心も大きい。ソ連は別だ。