イラク戦争に思う

今日は少し暖かそうなので、大船へ出てOh_Plazaで久しぶりにヘアカットした。休日のせいなのだろう人出が多い。ついでにEco Bookに寄って、「iモード事件:松永真理」他、文庫本数冊を買う。

その後、Coloradoで、アエラ3月26日号を読みながら、コーヒーを飲む。最高気温が15℃を超えると杉花粉が発生すると書いてあった。これからひのき花粉も多くなるという。その他、色々とあったが忘れてしまった。こう直ぐに忘れてしまうのでは、何のために読んだのかと、近頃本や雑誌、新聞などを読むたびに思う。読んでいる間の楽しさを求めてだろうか。それでよいのでなかろうか。



そういえば、出かける前に、NHKのBS−hiで「9.11テロ〜イラク戦争・BSが伝えた人々の記録」を視た。イラク戦争イラク人が苦しんでいるが、一方心ならずも徴兵されてイラクへ派遣された州兵とその家族の苦悩も大変なものだとの印象を受けたのみで、細部は殆ど忘れた。
日本がアメリカに敗れて占領されていた時は、非武装の米兵が日本の若い女性(所謂パンパン)と連れ立って街を歩いていても、何事も起こらなかった。今思えば凄く平和だった。この違いの理由は何だろうかと漠然と考えたのみ。分からない。ただ一般国民は、嫌っていた軍部がなくなってほっとしていたのでなかろうか。その軍部とは、何か?同じ日本人によって構成されている。こう考えると、益々分からなくなる。軍部が威張れたのは、現人神(アラヒトガミ)である天皇がバックにおられたからだ。しかし昭和天皇は、敗戦後間もなく「自分は神でない」と”人間宣言”をされた。全国民は納得した。昭和天皇は、即位以来軍部の横暴を苦々しく思っておられたらしいが、どうにもならなかったようである。これは、国の基本法明治憲法)の欠陥によると言うほかない。

そういえばイラクでの豊富なテロ資金は、イラク復興に携わっている業者から流れているそうだ。皮肉な現象という他ない。