斜陽

敗戦後、間もなく出版されて今も読みつがれている太宰治の名作「斜陽」は、戦後の没落貴族の悲哀とやりきれなさを読者に印象づける。しかし、国外に追放されたロシヤの没落貴族と違って、日本の戦後の貴族は私の知る限り我々庶民とほぼ同等の生活を送っていたようである。

私は、戦後間もなくある中堅鉄鋼メーカK社に入社して、その本社の技術部に配属された。技術部の隣に、経理部があった。その経理部の課長席の隣の席に、前田さんという50歳ぐらいの恰幅のよい、無口の元陸軍将官かとも思われる人がいた。彼が、算盤や計算機を扱って仕事をしているのを見たことは一度もない。何時も堂々と新聞の将棋欄の切り張りをしていた。聞くところによると、元侯爵だそうだ。

会社の創業者が、当時はパージ(公職追放)にかかっていて、表向き社長ではなかったが、文字通りの実力者で、そのお声で“遊んでいてもよい”からということで会社に入ったという噂を耳にしたことがある。
数年して本社を離れたので、前田さんがその後どうなられたかを知らない。



何年か経ち、戦後の復興期を乗り切ったK社は、横浜に研究所を建てた。そこで、私は、昭和45年頃、中途入社してきた徳川(慶光)さんという方と同じ部屋で働くことになった。徳川さんは、柔和な話好きな方で、東大の文学部(支那文学)卒だという。先輩ということで、親しくお付き合いさせていただこうと思って、色々お話している言の葉から漏れ聞こえるのは、世が世なら口をきくことも許されない凄い家柄の出で、そのうえ元公爵ということである。戦後の一時期、貴族院議員をしたことがあるとさりげなく言われる。徳川慶喜さんの直孫で、高松宮喜久子妃殿下の実弟で、時々妃殿下と会うとも言われた。
ある日、にこにことしながら「今度の日曜日にウイスキーで梅酒を作るんだ。旨いよ!出来上がったら一部あげるよ」と言われた。貧乏人上がりの私は、梅酒は安焼酎から作るものとばかり思っていた。お言葉は有り難く承っておいた。


戦後間もなく、人が良いのに付け込まれて、騙されて日本に居れなくなって、長い間ブラジルに逃避しておられたそうだ。事情を妃殿下からお聞きした、会長(上記の創業者のお子息)のご縁でこの研究所で司書の仕事をされることになったらしい。


戦後の日本には、旧貴族を騙す悪人もおれば、救う善良な有力者もおられた。これらの話は、関係者は亡くなり、既に時効になったと思うから、ここで披露する。