お別れの会

入社以来、定年退職までのほとんどの間50年余を部下としてお仕えした、K社の元社長Yさん(親しみの念をこめてあえて“さん“づけする)が、この1月9日に逝去された。享年93歳。近親者により密葬されたとのことで、今日K社による‘お別れの会’が、東京會舘、丸の内本館9階「ローズルーム」で11.30〜13.00に執り行われるというご案内を頂いたので、さきほどお別れをしてきた。

まず大きな部屋の片側に埋め尽くされた白菊の中央に置かれた遺影に向かって目礼してから白菊の小花を献花台に捧げ、50年の思いを込めて1分くらいの間、じーっと手を合わせた。

案内された次の間は、少し遅れて着いたせいか、黒山の人人。
窓際の寿司などの屋台の近くに、横浜の研究所時代の生き残り仲間が陣取っていた。美人のコンパニオンから水割りを受け取ってから、彼らと数年または数十年ぶりの挨拶をかわし、懐旧談をした。太って顔と名前が一致しない人がけっこういる。Yさんの思い出に談話は尽きなかったが、定刻の13時になったので解散した。大阪からきた人たちもおり、今日で最後の別れとなるかもしれない。

Yさんは九州男児で、技術屋にしては、政治的動きに長じ、日本人離れした長身と立派な体躯、さらに雄弁で一度でも会ったことのある人を魅了するという得技を持っておられた。技術部長時代に、役員達を説得して、他の鉄鋼メーカに先んじて東京近辺に研究所を設立させた実力者である。お蔭で、一社一工場のK社の工場が瀬戸内海沿岸にあるに拘わらず、Yさんに呼ばれた私は、横浜の近く、鎌倉に居を構えることができた。

また昭和35年高碕達之助氏の第一回訪中に随行以来、日中国交正常化前の、両国の経済交流の漸進的拡大と友好関係の樹立に貢献された。その功績をみとめられたのか、勲二等瑞宝章を受章された。この頃の関係か、元大使が’お別れ’に来ておられたと、某氏は言う。とにかく各界に広い顔を持っておられ、しかも世の動きを読むのに長けた優れた技術者であられた。


流感上がりなので、用心をした。往きは、家内に車でJR大船駅まで送ってもらい、グリーン車で上京、JR東京駅から会館まではゆっくり歩いて三菱村の再開発状況を観察した。そのため少し遅刻した。帰りは会館からJR東京駅までタクシー、グリーン車でJR藤沢駅まで、それから自宅までタクシーを利用した。