元代議士相澤英之氏

前々回の衆議院総選挙で、84歳と高齢の相澤英之氏(自民党)は、妻である女優司葉子の応援も空しく落選した。偶々「大蔵省主計局:栗林良光著」(講談社文庫)を読んでいたら、「第4章 主計官列伝」の中に、彼の知られざる経歴が載っていた。変わっていると言っては失礼かもしれないが、元大蔵官僚、自民党政治家としては敗戦直後に大変な苦労をされた方なので、次にその辺を紹介する。


『相澤は、学生時代は作家を志し「西伊豆の海」などの作品を校友会誌に発表したりした。
大蔵省入省が昭和17年。その年の9月に召集令状がきて、初年兵として入ったのが陸軍東部第17部隊、18年陸軍経理学校に入学。4ヶ月後に卒業。その年の7月に陸軍主計少尉に任官した。9月には34軍司令部付で漢口へ。さらに20年7月北朝鮮のハムアンへ転任。敗戦。武装解除。貨物列車にのせられ、船にのせられ、また汽車にのせられ、ついたのはボルガ支流のカマ河近くのエラブカ将校捕虜収容所。約9000人の日本軍将校が重労働させられていた。辛かったのは冬の採木作業で、片道5時間がかりで伐採にいって、帰りはその材木をソリにのせ曳いて帰るのである。僚友の何人かが厳寒の地で倒れた。


22年の冬、約四分の三の人たちは帰国を許されたが、相澤はドイツ人に「バルチザン抑圧の戦犯」と密告(後で誤りと判明)されて足止め。もう一冬越す破目になった。

復員は23年8月13日。大蔵省17年入省同期では最後だった。帰国したら弁護士になろうと思っていたが、制度が変わり、高文資格があってもさらに2年司法研修が義務づけられていた。

大蔵省に挨拶にいくと河野一之官房長が「同期と同じ待遇にするから戻ったらどうかね」と復職を勧め、相澤もそれに従った。(中略)

46年主計局長に就任した。

44年9月、経企庁官房長の時、女優・司葉子との結婚で話題となったが、一方では次官への障害になるのではないかと取り沙汰されたものだ。当時の心境を問うと「エラブガで死なずにすんだ儲けものの人生。偉くなるだけが人生じゃない。それならそれでいいじゃないか。好きな女性を妻にすることをあきらめることはない」と割り切ったそうである。元役人らしからぬこの返答は、生死の境をさまよった抑留生活を経て生まれてきたもののようである』


相澤氏とほぼ同年代で、海軍大尉として敗戦を迎えた作家阿川弘之氏は、ある雑誌で「8月15日が来ると、なるべく他出を控え訪客も辞退し、家でひっそり口数少なく暮らしたいと思うようになった。死者の霊魂がもし実在するなら、何というその静けさ。命令系統が一つちがっていれば、彼らと同じ運命をたどったはずの私は、・・・」と述懐している。


戦時中の世代は、「自分探し」とか、「自分の好きな仕事選び」などの贅沢なことは言っていられなかったのだ。何時も‘死‘と向かい合わせの生活をしていたのだ。


私には何もできないので、今の若い世代が進んでこのような残酷時代を招くようなことをしないのを祈るのみである。