戦時中の話

3日続きの雨が降りそうな曇天も終わり、今日は暖かい晴れ日。
深沢の病院の眼科へ行き、前回と同じ点眼剤「ヒアレイン」および「リボスチン」を貰う。黒目に少し傷があるから、目が乾いた気がするときは、薬屋で‘涙’と同じ成分の目薬を買って点眼したほうがよいと言われる。病院前の薬局でその旨を言ったら、“あります”と言うので、「ソフトサンティア」を買う。アレルギー性の目の痒みは、花粉など抗原が飛んでいる間は中々治らないそうだ。3年くらい前にはこのような目の痒みはなかった。免疫力が老化によって低下したのだろう。

それから大船へ出て、YAMADA電機で、キャノン複合機MP600用のブラックインキを買った。帰途、何時ものようにColoradoでコーヒーを飲みながら、備え付けの「アエラ:12/4号」を拾い読みする。「異変?!28歳と35歳の出産ブーム」や「慶応vs早稲田合併バトル;薬学医学奪い合い」などの他には、興味を惹く記事はなかった。

大船バス停で、ベンチに腰掛けてバスを待っている間に、隣の同じ年頃と思われる老人に「暖かいですね」と話かけたら「異常ですね。そのうち大地震が起こるかも知れませんよ」と思いがけない返事が戻ってきた。色々と話しをしている間に、この人は、18歳で徴兵を待たずに志願して、日本最後?の3○○連隊に入隊し、敗戦を伊豆大島で迎えたと言う。大島から相模湾の方を見ると、びっしりと米艦船で埋め尽くされていたそうだ。これでは勝ち味ないと悟ったそうだ。小学校から軍国主義を叩きこまれて、がちがちの軍国少年だったそうだ。無茶な戦争を始めた‘岩手の人’が悪いという。誰を指しているのか不審に思いながら、当てずっぽうで「東條は岩手出身ですか?」と訊いたら、「そうだ」という。おかしいな!と心の中で考え、帰宅後ネットで調べたら、本籍地が岩手県とのこと。生まれは東京であった。一見元気そうなこの人(80歳とのこと)も身体障害者手帳を持っていた。10年程前に山崎の病院で人工ペースメーカを入れて、命拾いしたそうである。

バスが鎌倉山止まりなので、ここで降りバス停近くのカフェ「ユスラスメ」で紅茶を飲みながら、備え付けの「鎌倉山」を読む。戦時中、戦後に鎌倉山に住んでいた人達の思い出の座談が載っていて面白い。当時は近所の付き合いが濃厚で、土地の大学生が小学生たちの面倒をよくみて呉れたそうだ。食料難、通学の苦労、工場動員などと大変な時代だった。そのような困難を生き抜いた人達の話を聞くと恥かしくなる。当時は1歳違っても、天と地ぐらいの運命の差があった。

帰宅したら、外壁の塗装が綺麗にほぼ終わっていた。だが、明日も残りがあるという。丁寧な塗装屋さんだ。