田螺の歌

今朝の外気温は7℃と、11月に入ってからの最低温度である。この寒い中を、家内は姉夫婦と一緒に姫路へ両親の墓参りに日帰りで出かけた。ご苦労さまである。「私にもと」、姉から誘いがあったらしいが、私がぶつぶつ言うのを承知してか、「体の調子が悪い」と言って断ってくれたそうだ。此の程度の嘘は、嘘も方便という諺があるくらいだから許されるだろう。
関東にある実の親の墓参りもさぼっている寺嫌いの私が、義理の親の墓参に関西まで行くはずがない。代わりに、実の親や義理の親の写真をパソコンのmy picturesに収めて、時折眺めては、感謝の意をこめて昔を偲んでいる。
墓に死者の魂があるとは思わない。‘死者の魂など、広い宇宙の何処にもない’、と嘯いても、家内はそれでは、世間に通らないという。論争しても始まらないから、それ以上に話を進めない。

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ところで、文芸春秋のグラビア広告などの後に連載されている阿川弘之の随筆は何時も興味をもって読んでいる。12月号では、田螺殿という古い俗謡が紹介されている。彼は此の歌を、戦争中赤坂の花柳界で覚えたそうである。記憶力の凄さにさすがに文士だなあと感心した。時は、海軍少尉に任官、東京在勤を命ぜられていた一時期(昭和18年後半)とのこと。
戦局がますます厳しくなり、神宮外苑球技場で出陣学徒壮行大会が雨の中で行われた頃である。こんな時期に一海軍少尉ふうぜいが料亭で美妓を侍らして田螺の歌を教わっていたとは、呆れてものがいえない。小説家の嘘(フィクション)と思いたい。庶民が飢えに苦しんでいた時期にである。太平洋戦争は負けるべくして負けたのである。

中学時代に同級で、当時海軍兵学校でしごかれていたであろうD君は、このような甘い味を知ることなく、一年後の昭和19年にレイテ沖で戦艦武蔵と命運を共にしたと、戦後に聞いた。全ては運である。