人生の意味

薄曇の穏やかな秋日和、テラスでのんびりとコーヒーなど飲んで過ごす。家内が大正琴の発表会で、帰りが遅くなるというので、久しぶりに近所のロイヤルホストで夕食を摂った。和風ハンバーグステーキを頼んだが、オーストラリア産ビーフとて、肉の持ち味がないところに、ソースが醤油味で甘味がなく、口に合わなかった。カップワイン(赤)も一緒に。最後に口直しにアイスクリーム。

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リナックスLinux)の生みの親であるリーナス・トーバルズに対するデビット・ダイアモンドの取材によって書かれたようである「それがぼくには楽しかったから」(小学館)をぼつぼつ読み始める。

『人生の意味について』という序章に出てくる、『人生で何かをしようという原動力は、初めは生存に関係していて、それから社会的なものに移り、最後は純粋な楽しみになる。人生の意味は、この第3ステージにたどり着くことだといえる。つまり、第3ステージにたどり着けば、“あがり”ってことになる』という言葉が印象的であった。
ここには、本来の宗教も哲学もないが、体験的、歴史的な説明があって、妙に共感するところがある。リーナスによれば、私も『あがり』ということか!!
現代の自由で豊かな時代と場所(アメリカ)に生きるリーナスだから、このような言葉が出てくるのであろう。


20世紀が始まる頃、日露戦争前の重苦しい空気の中にいた、旧制一高生である藤村操が、「万有の真相は唯一言にしてつくす、 曰く“『不可解』。我この恨を懐いて煩悶終に死を決す」という旨の有名な”巌頭の感”を木肌に刻んで華厳滝で投身自殺した。藤村は、第1ステージで早まって自殺してしまったのだ。
仮に彼が、現代に生きたとすれば、明るく楽しい学生生活を送っていたのでなかろうか、と気の毒に思う。