戦時下のエリート学生と軍部の摩擦

昼間は強い雨が降ったが、夕方には晴れ間が見え、日が差してきたので近所を散歩する。

藤原正彦氏は、「国家の品格」というベストセラーで、
『真のエリートの条件』として次の二つを挙げているそうだ。
第一に、文学、哲学、歴史、芸術、科学といった、何の役にも立たないような教養をたっぷりと身につけていること。
そうした教養を背景として、庶民とは比較にもならないような圧倒的な大局観や総合判断力をもっていること。
第二の条件は、「いざ」となれば国家、国民のために喜んで命を捨てる気概があることです。
そして、「この真のエリートが、いま日本からいなくなってしまいました。昔はいました。旧制高校はこうした意味でのエリート養成機関でした。」と言っているそうである。
しかし、旧制高校の中でもエリート校といわれた旧制第一高等学校(以下一高とよぶ)で、戦時中(昭和18年;1943年)に起こった次のエピソードを知られたら、どうお感じになられるか?
「記念祭の直後18日夜、緊急総代会が開かれて第162期委員が突然総辞職した。直接の原因は記念祭当日に発行された向陵時報151号の巻頭に載った三重野委員長(後に日銀総裁)の『第54回記念祭に寄す』との一文が当局(文部、軍部?)の検閲にひっかかったことにあった。
この文は、現実の厳しい情勢下にたくましく進むべしという所感を述べた、至って格調の高い文章であるが、その中の、
『一国家の立場はついに世界に対するエゴイズムに他ならない』
『かってドストエフスキィが緊迫のどん底に呻吟した時《俺が今一杯のコーヒーを飲めたら世界はどうなっても構わぬ》と絶叫した爽快な響きを懐かしく思い起こすものであります。』
『われわれの周囲には既成道徳を型のままに圧しつける無知者なしとしないのであって、そうした虚しい彼等の判断を静かに軽蔑する強さを養はねばならぬと思います』
などの言句が当時の当局の忌諱に触れたのであった。(この一文は清岡卓行氏 〈後に芥川賞作家〉が起草したと伝えられる)
(中略)
総辞職の当日に向陵時報の編集兼発行人になっている菊池栄一生徒主事が時報の件で内務省に出頭している。

筆禍事件にはすでにその前兆があった。一高文芸部は廃止しろという軍部の強い意向の中で、昭和18年2月発行の「護国会雑誌」第9号に載った中村祐三の小説「風信子」は、印刷が仕上がったあと当局の命令で削除されるという事件があったのである。」

今読んでみると、エリート臭が強く思い上がりも甚だしいというか、痛烈に軍または所謂「聖戦」を皮肉った一文である。しかし向陵時報は向陵生すなわち一高生たけの内部機関紙である。これを検閲して、外部がとやかくいうのはおかしい。当時は、これほど言論統制が厳しかったのである。その後、三重野氏が学校当局からお咎めを受けたたという話は全く聞いたことがない。むしろ「よくぞやったぞ!!」という雰囲気が学内にあった。
こういう一高生の多くはやがて、学徒動員で徴集され、中には永久に帰らなかった者もいる。
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当時の一高生を指導し、生徒から心服されていた安倍能成校長(戦後に文部大臣)は、山本元帥の戦死について次のような訓話をされていた。
「聞く所によれば元帥は日独伊三国同盟に対し最後まで反対し、そのために命も狙われたということであります。国政に係わる政治家や軍人が、国のためにならないと信ずる事に反対するのは当然のことであります」。
また、平林陸軍中将の講演に先立つ挨拶では、安倍校長はこう言われた。
「高等学校は士官学校兵学校とは本質が違うものであり、高等学校を士官学校のようにしよういう試みには私は断固として反対するものであるが、今度の戦争であれだけのエネルギーを示している軍から何も学ぶべきものがないと考えるのも誤りであろう。諸君は徒に反撥することなく、取るべきは取り、捨てるべきは捨て、もって他山の石とするつもりで静粛に聞いてほしい」

以上は、一高18年会 一高入学50周年記念文集編集委員会発行の「篝火」に記載の記事に、私が若干の所感を加えたものである。