過ぎた後に


今日も暑い。記録的残暑とかで、気象庁によれば、厳しい残暑は西日本を中心に今月いっぱい続くという。

この暑さで外出する気にもなれず、家内の尾道市中学のクラスメートIさんから、暫く前に贈られた自分史的随筆集『過ぎた後に』を家内から借りて読む。

1998〜2004年の間の折々に書きとめた昔の思い出話である。
著者の豊かな感性と知性が伺われる。
古希を過ぎた女性の思い出だから、どうしても亡き両親や友人に関することが多く、全体として暗いのは仕方ない。

夫(元エリート官僚)は酒をのむのも仕事のうち、と考える人だったようで、酔って帰宅することが多く、稀に途中でけがをしたこともあり、退職するまでは不安な日常を過ごしたみたい。

彼女たちは、開戦の年(1941年)に入学してから、幼い頭に国家と敵を教えこまれた。国民学校に始まり、新しい教育制度の、すべて一期生だった。
彼女が長い間こだわり続けたのは、あの無謀な戦争を起こし、敗れたからこそ得られた「自由」のことである。
戦中、戦後の悲しみや苦労を全部かき集めて比べても、生き残った日本人にとっては、自由というものを得た喜びのほうが大きかったのではないか。戦争が終わったとき10歳だった私(彼女すなわち著者)が感じ、いまも捨て去ることができない想いである。


彼女の叔父は、ルソン海峡のあたりで藻くずとなって消えた。彼は、一度も戦うことなく、したがって誰一人殺さず、死んで靖国に祀られた。しかし彼女は、あそこに叔父の魂があると思ったことはない。魂というものがあるならば、故郷に、母の許に還ったろうと思っているから。


明るいというか、愉しい話(読者にとってそう感じられる)は、一人息子と二人の孫(姉、弟)に関することである。
この本には書いてないが、家内によると、息子さんは、麻布、東大出の秀才とのことである。自慢気なので伏せたのだろう。


写真のような、今の日本の自由な風景は戦争の犠牲によって得られたのである。
だからといって、私は戦争を賛美するものではない。今度本格的戦争が起きたら、核戦争になろう。その時は世界の終わりである。