ユダの福音書


久しぶりに一時薄日がさした。この春車庫脇に植えたオンパチェンスが満開。


私は、処女マリアから生まれたといわれるイエスの存在を信じない。生物学的にありえないからだ。極論すれば、妻マリアの浮気を夫たるヨセフが気付かなかったたけの話としか思えない。

この点はさておき、キリスト教に関して面白い記事が文芸春秋7月号(2006年)に載っていた。筆者は鈴木宗男氏と同時に国策検挙された、かの有名な外務事務官佐藤優氏(同志社大学で神学を学んだ)である。


タイトルは「21世紀最大の発見『ユダの福音書』」である。
聖書学者による百年以上にわたる研究の結果は、紀元一世紀にイエスという人物がいたことを客観的に証明することはできないという結論に達したそうだ。

その他、色々書かれているが、内容が神学的であり、素人の小生が適切に要約することは至難である。

それで、銘記すべきと思った箇所を抜書きする。

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エスは大工の息子で知的水準は中の上であったが、類まれな洞察力によって、学識においてはるかに勝るパリサイ派の学者たちを次々に論破していった。イエスにとって重要なことは人間の救済であり、権力や富、そして学識は重要でなかった。

ユダの福音書』を含むチャスコ写本は1970年代後半に、エジプトで盗掘された墓の中から見つかった。
以後転々とした後、スイス・ジュネーブ大学名誉教授カッセル等が解読した。

ユダの福音書』は、これまで読まれてきた福音書と大きく異なる。そこに登場するユダはイエスを裏切るどころか、最も誠実な友人であり弟子であり、しかもそれを要求したのはイエス自身だった。


現在のキリスト教で主流の座を占めるカトリックプロテスタント,正教いずれも、『ユダの福音書』を手厳しく攻撃したエイレナイオスの流れを引いている。
彼の方法論は、キリスト教世界の中で敵と味方の線を引き、敵を殲滅することで問題の解決を図るというものだ。その結果、キリスト教世界は宗教戦争の連続だった。
近代になって戦争の技術が向上したため、絶え間ない宗教戦争が人類の滅亡をもたらす可能性が高まった。
しかしそれは神の意思とおよそかけ離れている。そうした危惧からキリスト教神学では、「寛容」が重要な意味を持つようになった。
ユダの存在さえ許容する寛容が、キリスト教の中に含まれていたことを、『ユダの福音書』は示している。

ユダの福音書』は、多元的価値観の共存する世界へと欧米社会を転換させる方向に影響を与えるだろう。
ただし、この影響が現れるのは、今世紀半ばになると思う。

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私にとってできることは、それまでに核戦争によって人類が滅亡する悲劇が起こらないよう祈るのみ。