従軍慰安婦

従軍慰安婦問題は、日本人にとって頭が痛い嫌な問題である。1993年の河野洋平官房長官談話で一旦解消したと思われていた。しかしこれまで米国立文書保管所で機密文書として保管されてきた報告書が公開されたことにより、慰安婦の動員には「強制性」はなかったという日本政府の主張の根拠が、薄らいできたらしい。そこに米国内の韓国人のロビー活動が実りかかって、米下院における慰安婦問題に関する対日非難決議案が通ろうとしている。

安倍首相は、昨日の国会で「決議があったからといって謝罪することはない」と言明。「狭義の意味でいう“強制性”について裏付けのある証言はなく、客観的事実に基づいていない」と反論したようだ。

8月15日の玉音放送を聞いた後、軍部は勿論関係省庁は、占領軍に見つかっては都合の悪い文書類を、数日間かけて一切合切焼却したという。所謂証拠隠滅というやつだ。しがって、従軍慰安婦などに関する公的証拠は日本にはないはずだ。

一方連合国による占領後の日本政府は、連合国軍兵士(主に米軍兵士)の性的欲望によって良家の子女が暴行されるのを未然に防ぐため、急遽特殊慰安施設を開設した。

施設第1号として、大森小町園が開設され、初日からジープが群がって行列を作った。以降東京に3カ月間で25カ所の施設を設置し、慰安婦は1600人に及んだと報じられている。
当時は東京大空襲で焼け出され、住む所や食い物がない気の毒な若い女性が溢れていたので、米軍用慰安婦を集めるのに苦労はなかった筈である。つまり「強制性」はなかった。
そのためか、占領中の米軍は「優しい、チョコレートやガムを呉れた」などと評判が頗るよい。戦時中「鬼畜米英」と教えられたのとは正反対で、中国など占領地内で「鬼畜」だったのは日本兵だったのでなかろうかと思われた。

昭和35年、占領が終わって7〜8年経ったころ、戦後復興が始まりかけた時、私が勤める会社が横浜の三ツ沢公園の一角に中央研究所を設立することになった。その敷地を下見に行った所、ブロック建ての、当時としては立派な平屋棟が、ばらばらと幾つか建っていた。どうも、「ここは特殊慰安施設があった場所らしい」という話を、案内の事務屋さんから聞いた。

各棟のなかは、ベッドルーム、キッチン、トイレ、ソファ付きの居間など、ホテルのツインベッドルームよりもゆったりとしていて、施設も豪華だった。当時は今日のような悪質な泥棒はいなかったようだ。全部壊すのは勿体ないので、正門近くの一棟を残して、内部を綺麗に改装した後に、ゲストルームや研究所員の娯楽施設などとして使うことにきまった。この建物は、私の定年退職後も残っていたと記憶する。