神楽坂

棺桶に片足を突っ込んだ暇な老人ともなると、青春時代の甘く美しい思い出が、走馬灯のように絶えず頭の中を巡っている。だがこれらのことを書いたり、言ったりするのはてれ臭くて、何かのきっかけがないとできない。いつもその点では腹が膨れている。
昨日も書いたようなKさんのメールを読んでから、念のため、mixiでKさんのブログを読んだ。音楽、絵画などについて素晴らしい感想や論評を述べておられる。
少し肩が凝ったのをほごすために、孫娘(22歳)の怖いので滅多に読まないmixiブログを開いてみた。2006年12月03日の神楽坂珈琲対決というタイトルが気になったので、読み出したら「神楽坂で数学教育関連の講座があったので、行ってみた。静かで、商店街が充実してて、 セレブになったら“豪邸”を建てたい街だ。と、いうのが第一印象。」という文章に、がくんとやられた。今は神楽坂には全く魅力を感じないが、孫娘と同じ年頃の時は、絶えず磁石のように神楽坂に引き付けられていたものだ。このことは、孫娘を初め家族の者は、誰も知らないはずである。血というか遺伝子というか、何か分からないが、因縁というものを感じた。
それで思わず、普段したこともないコメントを次のようにしてしまった。恥かしいような、恥かしくないような感じ。

「神楽坂は懐かしい所、学生時代から恋する乙女が住んでいて、しばしばお宅を訪ねました。恋は実りませんでしたが、3年前に、そのお宅を探しましたらまだありました。外から、建て替えた豪邸の写真たけを撮って帰りました。ご本人が生きているかどうか分かりませんが、生きていたとしても、会わないほうがよいでしょう。
もし恋が実っていたとしたら、跡取り娘なので、僕は今そこに住んでいるかもしれません。その場合、勿論貴女はこの世にいません。人生って不思議ですね!」
このことを、棺桶の中に意識なく入ってしまう前に、孫娘に知って貰いたかったのだ。

写真の北欧風の家が孫娘の思うセレブの豪邸かどうかは分からない。でも土地柄を考えると、ある意味で豪邸といえるのでなかろうか。
この乙女は、初めて会った時は目白女子大学付属女学校の1年生の子供で、牧子という名であった。戦時中の大学を休学していた夏(昭和19年)に、群馬県の山奥、下仁田の旅館に滞在していた時に同宿で知り合った。一人娘のせいか”お兄さん””お兄さん”と人懐かし子だった。一緒に自転車に乗ったりして遊んだものだ。その内に恋をしたのか、胸苦しくなって、予定より早めに東京に帰ることにした。母親が愛想よく別れの挨拶の時に主人の名詞を呉れて、いつでも遊びにきてくださいと言ってくれた。その言葉に甘えて帰京後は度々御宅を訪ねた。ご主人は私と娘の3人の箱根強羅ホテルへの一泊旅行に誘ってくれた。温泉に3人一緒に入ったが、娘のあそこはまだ子供だった。