自衛隊員の自殺

去る1月14日(日)にTBSで放映された日曜ドラマ「華麗なる一族」の冒頭近くで映し出された、年末の活気に満ちた神戸市三宮街頭風景は、昭和41年末即ち戦後20年経った頃の風景で、当時の東京の銀座風景と似ており懐かしかった。その中に、戦後世代の人は気付かなかったと思うが、白衣の上にカーキ色の薄いコートを纏った傷痍軍人が物乞いしている場面がちらりとあった。彼らは、赤紙一枚で心ならずも徴兵され、戦地で足や腕の一部を失ったが、命あって帰国した。しかし生活の術がなく、路頭で物乞いして生きながらえていた気の毒な人達だったのだ。東京でも、盛り場や品川駅の地下道(今はない)などでよく見かけて複雑な思いに駈られたものだ。彼らを含めて当時の日本人の生きようとする力は凄いものだった。



ところで、イラクサマワに派遣された自衛隊員の活動の模様の放映を視たことがないのは私だけだろうか。全員無事帰国したとのニュースは知った。お目出度いことである。だが、「週刊ポスト:2.2号」は、イラク派遣から帰還した自衛隊員が次々に自殺していると報じている。事実とすれば、何ともいいようのないお気の毒なことである。

05年8月7日、札幌市郊外の人気のない山中で、陸上自衛隊・北部方面隊の幹部自衛官(三佐=38)が妻子を残し命を絶った。車内に持ち込んだ練炭による一酸化炭素中毒死だった。自殺した三佐は第二次イラク復興支援隊に警備中隊長として参加。04年5月から約3ヶ月、サマワに派遣された。警備中隊の現地での任務は部隊の警護だったが、宿営地近くには爆弾が飛来し、さらに、復旧作業が行われる外での警護ともなると常に地雷やテロの危険と隣り合わせだった。
知人によれば、「帰還後、彼は次第に精神状態が不安定になっていきました。05年1月、札幌で行われた日米共同訓練に参加した時のこと、突然、“米兵に近づくな!殺される!”といい出し、周囲を困惑させたのです」ということのようである。

その他、実に7人ものイラク派遣経験隊員が自殺していたそうだ。内訳は陸自6人、航空自衛隊1人である。

自らもサマワの現地視察を行った佐藤弁護士によると、「妻らの話では、本人は家族にもイラクでの活動を明かすことを禁じられていて、弱音や愚痴さえこぼさないというのです。ストレスなどは、他人に話すことによって解消されることが多いのですが、こうした口止めは逆にストレスを増大させていると思う」という。


自殺された自衛隊員の方やその妻子の方々には、お気の毒としかいいようがない。また‘いじめ’を苦にして自殺するひ弱い子供もいる。戦後60年も経って飽食飽満の時代となり、日本人は生きる力が弱まったのかと、冒頭に述べた白衣の傷痍軍人を思い浮べては考えざるを得ない。