魔女 細木数子

gladson2006-07-28






写真は、昨日鎌倉霊園の事務棟前で撮った、花弁が全部紫色の時計草の花である。



駒場にあった旧制高校における戦時中(1942年頃)のある日、
全校生が講堂に集まるよう召集がかかった。何か重大なことでも起こったのかと、懸念と期待の入り混じった気持ちで待っていると、敬愛する白髪の安倍能成校長が現れて、和服姿の颯爽とした若い安岡正篤先生を紹介され、「先生は我々の先輩であり、陽明学の大家であり、かつ時局に通じておられるので清聴するように」とのご挨拶があった。

当時は、校内に何となく反戦的または反軍的な気分が漂っているのを察して、文部省や軍部に対するアリバイ作りのために、どちらかといえば右翼とみられる安岡先生を講演に招待したものと、今になって推測される。

理科の小生には、当時陽明学の何ものかを知るはずもなく、講演の中身については全く記憶がない。

同じ頃あった鶴見祐輔先輩(弁論部)の自由出席の時局講演は、今でも感銘が深く残っている。「諸君は、戦後の日本に備えて今のうちにしっかり勉強しておけ」という趣旨だったと思う。
そう言われても、この戦争が終わる見通しはなく、戦後まで生きていられるという保障がない。当時は空理空論にしか思えなかった。
しかし戦後まで辛うじて生き延びて始めて、鶴見先輩の歴史的見通しの正しさが納得できた。

ところで安岡先生の偉大さ!?が、戦後になってぼつぼつ知られるようになってきた。例えば、「終戦詔勅を監修された」とか、「保守本流の守護神だった」とか。

所が小生が定年退職した20年ほど前に、「85歳の安岡氏と女占い師の結婚問題」が週刊誌を賑わしているのを知り、唖然とした。

当時は第2の人生を始めて間もなく超多忙で、こんな醜聞にかかずらっている暇はなかった。

最近時間をもて余すくらい暇になって、偶々「週刊現代7/29号」を開いたら、この醜聞の詳細が報じられていた。問題の女占い師が昨今テレビで大人気の細木数子と知り、さらに唖然とした。

この記事によると、8年前に妻を亡くし老人性認知症が進んでいた安岡氏は1983年(昭和58年)5月以後、しばしば細木のマンションを訪れた。細木は酒を大量に供し、当時45歳、熟女の色香で85歳の安岡氏を篭絡し、結婚誓約書を書かせたそうだ。同年10月安岡氏が住友病院に緊急入院中に、細木はこの誓約書をもとに文京区役所に婚姻届を出したそうだ。

それで安岡家と細木の間に紛争が起こったが、同年12月安岡氏はそのことを知らずに安らかに亡くなったとのこと。

遺族には気の毒だが、かつ魔女細木を擁護する積もりは毛頭ないが、
安岡氏の最後は幸福だったのかも知れない。