昭和天皇と靖国神社

今日の朝日新聞によると、

昭和天皇が死去前年の1988年、靖国神社A級戦犯が合祀(ごうし)されたことについて、『私はあれ以来参拝していない それが私の心だ』などと発言したメモが残されていることが分かった。当時の富田朝彦宮内庁長官(故人)が発言をメモに記し、家族が保管していた」


メモではさらに、『松平の子の今の宮司がどう考えたのか 易々(やすやす)と 松平は平和に強い考(え)があったと思うのに 親の心子知らずと思っている』と続けられている。終戦直後当時の松平慶民宮内大臣と、合祀に踏み切った、その長男の松平永芳靖国神社宮司について触れられたとみられる。


この松平永芳靖国神社宮司に関する記事を昨年、雑誌「諸君!」の10月号で読んだのを思い出したので、再読してみた。


以下要点を記す。

松平氏(海軍大佐)は、海軍機関学校の教官を務めたことがある。
彼が宮司になったきっかけは、同郷(福井県)の最高裁元長官の石田和外氏に「なれ」といわれたからのそうだ。こんな個人ベースで宮司に簡単になれるのか疑問だが、そう書いてあった。


永久戦犯の合祀が法的に全く問題ないと彼が考える理由は、「日本とアメリカその他の連合国が完全に戦闘状態をやめたのは、国際法上、サンフランシスコ平和条約が発効した昭和27年4月28日だ。戦闘状態にあるときに行われた東京裁判は軍事裁判であり、そこで処刑された人々は、戦闘状態のさなかに敵に殺されたことになる。
つまり戦場で亡くなった人と処刑された人は同じなのだ」ということらしい。

このご都合主義な論法には納得できない。



戦場で亡くなった人と処刑された人(A級戦犯:特に東條英機)は被害者と加害者の関係にあるというのが、私達世代の常識である。

彼は、戦時中海軍をバックにかなり美味しい思いをしたのだろうと想像される(こういう人間が数多いことは、よく知られえいる)。

その快い思いのまま戦後を過ごしたのでなかろうか?
このような異常な人間を靖国神社宮司にしたことに、今の日本の悲劇がある。